可能なるコモンウェルス〈55〉

 アレントによれば、ジェファーソンは「憲法そのものの中に、世代の交代期間にほぼ相当する『所定の期間ごとにそれを修正する』規定を設けるよう提案」(※1)していたのだという。
「…彼が規定したかったことは、アメリカ革命のコースに伴って展開された活動の過程全体の正確なくり返しであった。…」(※2)
 こういった言葉を「表面的に」見ると、まるで共産主義の「永続革命(Permanent Revolution)」のようなことを彼は考えていたのかと思えてくるところかもしれない。しかしこちらの方はあくまで「革命が未完であるがゆえの永続」を言うわけであり、それは要するに革命の「延長もしくは引き延ばし」にすぎず、ひいては当の「革命政権の延命」を目論む魂胆から永続を謳っているのに他ならない。
 一方でジェファーソンの唱える「反復革命(Recurring Revolution)」とは、上記でもあるように「革命過程全体の正確な繰り返し」という主題にもとづいて考えられている。つまりこれは永続=延長されるようなものではなく、むしろ全く新たな経験の過程として、そのディテールを「正確に繰り返し」つつも、しかしその都度の経験としては「新しく始められるべきもの」として設定されているわけである。これはアメリカ革命の「経験」を、それをもはや知り得ない=経験し得ない世代に、アメリカ国民人民が入れ替わってきたタイミングに合わせて、それでもなお「この革命」の経験を、「改めて経験することができる」という構想の下で、ジェファーソンはこのような規定を提案したものだと考えられるのである。
 しかしもちろん、この構想には明白に矛盾がある。
 個々の過程や経験は、それぞれに個別の固有性を有している、すなわち「歴史性」を持っている。そしてその個々の過程や経験は、それぞれ個別的な固有の過程や経験として厳密に「一回性」のものであり、個別の事実として「唯一性」を担保するものなのである。ゆえにそれは何度繰り返そうとも、「全く同じ過程や経験は、正確にはけっして繰り返し得ない」のである。
 ジェファーソンの考えていることとしてはむしろ、セーレン・キルケゴールの言う「反復しえないものの反復」を想起させるし、あるいはルイ・アルチュセールのイデオロギー論で語られる「形式一般の永遠性」をインスパイアさせるものがある。もちろん「それぞれの人物が現に生きた時代」を考えれば、ジェファーソンが上記のような「思想および概念をあらかじめ認知していた」わけはないだろう。にも関わらずこういった観念が現象しうるということ自体が、実に驚くべきことなのである。この、観念としてのある種の普遍性は、一方で一つの可能性として見ることができよう。再びキルケゴールを引けば、この観念の普遍性こそ、人間にとっては絶望からその精神を救う、「可能性」という気つけ薬となりうるのかもしれない。

 アレントが紐解くジェファーソンの思想をもう少し見ていこう。
「…(…ジェファーソンが…)『これまでのところ、われわれは憲法をあえて不変のものとするほどそれをまだ完全なものにしていない』とのべたとき、明らかにこのような完成がありうるかもしれないと恐れて、すぐにつけ加えている。『憲法を不変なものにすることができるだろうか?私はできないと思う』…。…」(※3)
 ジェファーソンが憲法を「不磨の大典」だとは考えていないのは確かなことだと言える。しかしたとえば、いよいよ勢いづいてきた様子の「改憲派」の主張や、その論理の根拠ともしている当のアメリカ憲法の「修正」状況などが表しているような、「年月によって時代と合わなくなり、現実の環境に適応しなくなってきたから」という理由で、むしろ自分たちの都合や利害に「適応させて」憲法を変えよう、などといった考えを、ジェファーソンは全く持ち合わせてはいないのである。全く逆だ。彼は自分自身を含めた革命・建国の世代「だけの」経験として、革命・建国および憲法制定の経験を「独占する」ことを、誰よりも否定的に捉えた。「激しく憎んでいた」というほどに。それどころか彼は、自分たち世代からいかに遠くまでその経験を「手放しうる」ものかについて腐心してさえいたのである。
 ゆえにジェファーソンは、彼の提案となる「反復革命」を規定する理念としてあるところの「人間固有の権利の中に、『反乱と革命の権利』を含めた」(※4)というわけであるが、その根拠として彼は、いささか逆説的な言い方だが「『結論として《人間の固有かつ譲渡できない諸権利は別として、万物は変化する》からである』」(※5)としている。ここでジェファーソンは、「変化する万物=固有性・歴史性を持つ個物」と、「形式として永遠性を有する、人間固有の権利」を区別しているのだと考えうる。そして後者に「形式としての反乱と革命の権利」を含めたわけである。つまり彼において「権利」とは、「なしうること」すなわち「可能性」として一つの永遠性=恒久性を有するものであり、そこに含まれる「反乱および革命」もまた然り、ということになるわけである。その意味で彼は確かに「永久革命論者」であると言えるが、見ての通りその主意としては普通に考えられているものとは全く異なるものとなっているのもまた見ての通り明白であろう。

〈つづく〉

◎引用・参照
※1 アレント「革命について」
※2 アレント「革命について」志水速雄訳
※3 アレント「革命について」志水速雄訳
※4 アレント「革命について」
※5 アレント「革命について」

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?