労働力の問題 (『脱学校的人間』拾遺)〈13〉

 労働者の労働力は、そもそも「商品」として見出されているものであり、それが売られ買われ使用されている。ではここからは少し、その「商品」というもの自体が、一体どういうものなのかという観点から考えていこう。

 商品の使用価値は、その商品が買われて実際に使用されることにおいて実現され、そしてまたその使用価値は、実際の使用において消費されることになる。使用価値が消費されるということは、それが使用されている間に消耗し、やがては使用価値として使用できなくなるということである。ゆえに彼は、また新たに商品を買う。だから、商品は新たにまた売れる。
 「現代の過剰な消費社会」を評して、たとえばハンナ・アレントは次のように言う。
「…私たちは、自分の周りにある世界の物をますます早く置き代える欲求にかられており、もはや、それを使用し、それに固有の耐久性に敬意を払い、それを保持しようとする余裕をもっていない。私たちは、自分たちの家や家具や自動車を消費し、いわば貪り食ってしまわなければならないのである。…」(※1)
 一方でエーリッヒ・フロムも同様の主旨で次のように言っている。
「…現代人はもっと多く、もっと優れたものが買えること、とくに新しいものが買えるようになることに、夢中になっている。かれは消費に飢えている。…」(※2)
 いずれにおいても「とっかえひっかえモノを買い漁るような現代消費社会の風潮」が一様に嘆かれているわけだが、しかし実際のところ人はただ単に「飢えたようにモノを買い、貪るように消費することだけ」に血眼になっているのだろうか?
 新しい商品や優れた商品、あるいはもっと多くの商品を人が買おうとし、また実際にそれを買って使用するのは、その時点で「それまでに買っていて、かつ使用していた商品の使用価値が、すでに消費されてしまった」ということを、彼自身が実際に認めているからである。つまり、その時点で彼がそれまで使用していたものは、彼にとってすでに使用価値ではないと、彼自身において見なされているということだ。
 仮にもし「新しい商品が買われた時点」で、それまでに買っておいた商品が使われずにまだ残ったままであったとしても、「新しい商品が実際に買われたその時点」で、「それまでに買った商品の使用価値」は、新しい商品の使用価値がその使用者に実際に使用されることにおいて実現されるものであるというのを前提に、「すでに」新しい商品の使用価値に置き代えられていると見なされる。ゆえにその時点で「それまでに買った商品の使用価値」は、その残量に関係なく、すでに消費されたものと見なされているのだということになる。
 というわけで、実に消費において「実際に消費されている」のは、「モノあるいは商品それ自体」であるというよりも、「その使用価値」なのだということが言える。「モノあるいは商品それ自体」が、まだその形をとどめていようとも、その使用価値がすでに消費されたと見なされるならば、それは「モノあるいは商品それ自体がすでに消費されていることになる」のだ。新しい商品が買われ使用されることで、それまでに買われ使用された商品の使用価値は、そこですでに消費されたものとして、「それを使用する者の前から立ち去る」ことになる。そして、それが「立ち去った後」には、新しい商品の使用価値が「すでに置き代えられている」のである。

〈つづく〉

◎引用・参照
※1 アレント「人間の条件」志水速雄訳
※2 フロム「正気の社会」加藤・佐瀬訳

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