労働力の問題 (『脱学校的人間』拾遺)〈14〉

 商品を実際に買い使用する者にとっては、「それぞれの商品の使用価値は一定である」と言える。
 たとえば「テレビ番組を録画したいと思う人」にとって、「VHSのビデオデッキ」も「ハードディスクレコーダー」も、「テレビ番組を録画するという、一定の使用価値として使用することができる商品」である。その一定の使用価値を、それぞれの商品が入れ替わり立ち替わり、その使用価値の使用者に実際に使用されることで、その使用価値は「使用価値として実現され維持されている」ということになる。
 さらに商品の使用価値は、「その商品が、使用者によって使用される関係にあることにおいて実現する」のだが、しかし「その商品が使用されない」のであれば、また「使用されなくなる」のであれば、「その商品と使用者との関係」は、すでに断ち切れている、あるいはそもそも関係がなかったものと見なされることとなる。そしてそのような「立場」に置かれるとき、「その商品にはすでに使用価値はない」と見なされており、また「そのような商品は、すでに商品でさえない」と見なされることになる。マルクスが端的に形容しているように、「衣服は着るという行為によってはじめて実際に衣服になる」(※1)のであり、逆に「人の住まない家は、『in fact〈事実上〉』何ら実際の家ではない」(※2)のである。

 服は人が実際に着ることによって、また家は人が実際に住まうことによって、その使用価値が消費され、それぞれその使用者にとって「服」となり「家」となる。着られ住まわれることがなければ、また「そのつもりで買われる」のでなければ、「そもそもの」その服も家も、「何ら事実上の服でも家でもないもの」と見なされる。したがって「事実上として商品でもない」ことになる。
 商品が、その使用者に使用されることによって実現する使用価値は、「使用者が、その商品を使用することによって実現する使用価値」なのであって、その商品が使用者に使用される前に、あるいはその後においても、「商品が、独自に自らの使用価値を持っている」のだと、つまり「商品それ自体で、自らの使用価値を実現している」のだということには、けっしてならない。だから商品を使用者が使用しなければ、あるいは使用しなくなれば、「その商品の使用価値」はもはやないのであり、あるいはそもそもないのだということになるわけである。
 では、商品が使用者の前から立ち去った後に、「その商品が使用されることによって実現していたはずの使用価値」は、一体どこにいってしまったのか?
 ご心配なく、ちゃんと「別の商品が、その使用価値として入れ替わっている」のだ。そのように「ある一つの商品の使用価値」は、きちんと「別の商品の使用価値」で置き代えることができる。それでこそ「商品」なのだから。そしてそのように「置き代える過程」においてこそ、「消費は実現されている」というわけなのだ。

〈つづく〉
 
◎引用・参照
※1 マルクス「経済学批判序説」
※2 マルクス「経済学批判序説」

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