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脱学校的人間(新編集版)〈81〉

 イリッチにとって、「脱学校」とは一体何だったのだろうか?
 敢えて言うとすれば彼において「脱学校」とは、結局のところ一種の思考実験であるのに留まるものであり、となると彼自身の人生において脱学校とは、ことさら必要不可欠なというほどのものでもなかったのではないのだろうか。思うにおそらくイリッチ自身は、たとえ社会が脱学校しなくとも、ともあれただ生きていくこと自体はそれなりにできたのであろう。だからこそ彼自身は、脱学校を一種の「社会的なサービス」として、他人に提供することができたのだとも考えられるのだ。
 こうしてみるとイリッチ自身もまた他の「改革的教育論者たち」と同様に、どこかしら脱学校というテーゼについては、それを「制度的に捉えてしまっていた」のだろうと推察せざるをえない。これは彼にとってはたしかに、最大にして決定的な誤りであり、なおかつ過ちでさえあっただろうと結論しなければならないところであろう。
 一方で私は「脱学校」を、現に生きられているこの日常において見出す。
 日常が失われれば、人はたしかに生きていくこと自体ままならない。しかし、そのように「自分の人生から日常が失われてしまった」と感じるときでさえも、人はそれでも「そのような日常の只中」を現に生きているのもまた確かなことなのだ。そして私にとって「脱学校」とは、まさしくそのようなものなのである。
 もし、「そのようなものは脱学校とは言わない」とあなたが思うとしたら、それはそれで結構なことだ。それを一体「何と呼ぶか?」は、私にとって大した問題ではない。ともあれ私は「その只中を現に生きている」のである。それだけが重要で、それこそが私の人生において欠くことのできない事実なのだ。

 ここであらためて確認しておく。
 社会とはそもそも学校的であり、ゆえに社会も学校もけっして脱学校しえないのである。
 では脱学校「する」のは、一体何か?
 それはもちろん、「人間」であるのに他ならない。
 人間は、「自分自身が現に存在している=現に生きている」ということの本質を、ある特定の条件において一元化することなど、本来的にはけっしてできないのである。人間は、常にそれ以外の諸条件、それは自分自身が意図していないばかりか、意識さえもしていない無数の条件も含んだ上で成立している「この現実」を現に生きているのであり、またそのように生きざるをえない。つまり人間は、その本質においてけっして学校化しえないのだ。しかし、その人間までもが学校化してしまうということ、それこそが矛盾であり、倒錯であり、不条理なのである。
 翻って言えば、「脱学校」とはそのような、矛盾・倒錯・不条理に対しての、「現に生きられている問いそのもの」なのであり、そのような問いを現に生きることそれ自体なのだ。そしてそのように、問いが現に生きられているという事実は、「この問いの解そのもの」ともなるわけである。
 たとえ「学校的なもの」が、いかに人の生を定義づけ条件づけようとも、しかしその定義や条件を離れてもなお生きられている、「この日常=この現実」という事実そのものは、どのようにしてであろうとも、いかなる定義や条件の意図する通りには、それを現実からかき消すことも覆い隠すこともけっしてできはしない。脱学校は、この事実を明白なものとし告発するものでもあるわけなのである。

 今一度繰り返して言っておきたいのだが、脱学校とは一般に思われているような「学校化に代替する方策や手段」ではけっしてないのである。もちろん、社会的な行動様式として呈示される何らかの方策や手段は、それが対象とする一定の社会的な関係様態に向けられたものに限られているのであるならば、それがいくら呈示され実行されたとて何ら差し支えるところはないだろう。なおかつ、その他の数多ある方策や手段の、その一定の効力も認めた上で、当のその方策や手段が採用されているというのであれば、社会的な意味ではそれは確かに、一定のレベルで有用有益なことともなりうるのであろう。
 しかし学校、もしくは教育、あるいは学校化なるものは、その他のいっさいの方策や手段を駆逐することを何よりもまず意図するところのものなのであり、なおかつその他のいっさいの方策や手段を駆逐しなければそれ自体がけっして成立しえない方策・手段なのだということは、すでに何度も言ってきた通りである。ゆえにそれはもはや、「社会的に」呈示提案されたものとさえ言えないような、他の全てを凌駕して「自らのみにおいて社会そのものたらん」とするような、あまりにも不遜な意欲にもとづいたものなのだということも、すでに繰り返し何度も言ってきた通りである。
 そこで「脱学校」とは、そのような傲岸不遜な方策・手段(solution)に対峙する、一人の現に生きている人間としての、その決然たる態度(attitude)なのであると私は言いたい。これはまさしく、現に生きる人間として本性的(nature)な「否(ノン)」の表明なのだ。
 一体、現に生きる人間を駆逐しようとするような方策・手段が、この世界における唯一の方策・手段であるとしたならば、たとえいかなる人間といえどもそれを逆らわず受け入れて、唯々諾々として追従するなどということが、はたしてありうるものなのだろうか?そうしてみると、たとえそれが何であれ、自分自身が現に生きていること自体を阻むような何ものかに対して、「直感的に」抵抗を試みようとするのは、まさに人間として極めて「自然な態度」なのだと言えるだろう。

〈つづく〉


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