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脱学校的人間(新編集版)〈75〉

 世のたいがいの人々は、「制度そのもの」が脱学校の対象になっているのだというイリッチの告発の真意をほとんど全く理解できてはいないし、「社会のエートスをも脱学校化しなければならない」というイリッチの発した言葉の意味も、ほとんど誰にもまるで伝わってはいない。相変わらず脱学校とは「制度の内容あるいはエートス=慣習の内容を改革するもの」なのだというように、一般の人々は考え信じきっている。脱学校とはそういった「教育の内容において生じた問題をいかに改善していくのか?」という議論であるのに他ならないのだと、人々は相変わらず固く信じきっており、そしてそのことに誰もいっさい懐疑の念を差し挟むことさえない。
 ただやはり、一般の人々がそのように思い違えている責任の一端は、提言者である当のイリッチ自身にもあるはずなのだと、ここで改めて言っておかなければなるまい。

 イリッチは「学校化した教育」について、次のように嘆き、そして怒る。
「…教育を革新しようとしている人々でさえも、教育機関が彼らの詰め込んだ教育内容のパッケージを生徒たちに注入する注入器のような機能を果たすことを前提としている。…」(※1)
「…人々に大部分の学習は他人から教えられることを必要としないということに気づかせようとしても、そのようなことは操作することも計画することもできないのである。…」(※2)
「…教育は教育者の管理下になされる制度的過程の結果だと仮定している…。」(※3)
「…教育者と被教育者の関係が供給者と消費者との関係として続くかぎり、教育研究は堂々めぐりをつづけるであろう。…」(※4)
 そして、彼は言う。
「…抽象的に人間を評価するように作られた学校やその他の装置に逆らって各個人の独立を積極的に認識することが伴わなければ、教育の自由を保証することにはならない。…」(※5)
 このように見ると、結局のところ彼自身がやはり「教育について」あるいは「教育のために」考えてしまっているようであり、「教育について」もしくは「教育のために」語ってしまっているようである。だからこれらの言葉に触れた人々は、当然にこう思うだろう。「要するにこれは教育をめぐる話をしているのだ」と。
 しかし、イリッチの提起した問いというものは、本当はそこにただ留まるようなものではなかったはずなのだ。何よりもまずこれは、「教育や学校が必要とされるような社会とは、一体どのような社会なのか?」という、この現在の社会自体を見つめ直す根本的な議論として始まっているはずなのであった。そして、「学校や教育がなければ成り立たない社会とは、はたして社会自体としては存在しうるものなのか?」という、社会なるものそれ自体の成り立ち、その構造自体を捉え直す議論として、幅広く展開されていくべきものでもあったはずなのである。

 もし本当に学校や教育がなければ、この社会は社会としてやっていけないのだろうか?
 もし本当に学校や教育がなくなったら、この社会はそれらと共になくなってしまうのだろうか?
 もし本当にそのようになることが起こるとしたら、そのとき人間は一体「どこ」に行けば生きていけるのだろうか?
 しかし、こういったことは、ほとんどの人たちには全く考えもつかないものなのである。
 なぜか?
 それは、この社会において現に生きているほとんど全ての人たちが、「学校や教育が存在する社会しか考えることができないから」だ。そして、「ほとんど全ての人たちが、そのようにしか考えることができなくなる」ということこそが、まさしく「学校化の様相」そのものなのである。つまり学校化とは、単に「学校のみ」あるいは「教育のみ」に関わる話ということではなく、まさしく「社会全般に関わる話」なのであり、あるいは「人間そのものに関わる話」なのだということは、実にこういうことを言っているわけなのだ。
 しかし、ほとんどの人たちがそのことに思い至ることがないために、ましてイリッチ自身が実に余計なサービスをしてしまっているがために、この議論の焦点はすっかりぼやけてしまい、あたかも脱学校とは「教育の特殊な一形態」であるかのように、一般には思い込まれてしまっているのである。

 イリッチが、「脱学校化された教育」なるものへの人々の感性的な欲求に対して、はからずも余計なサービスに傾いてしまうのは、次のようなところにも表れている。彼はこのように言う。
「…教育の脱学校化が成功するか否かは、学校の中で育てられた人々がそのためのリーダーシップを発揮するかどうかにかかっている。…」(※6)
 ここで言われる「教育の脱学校化」というワードは、しかしそれ自体がすでに矛盾であるのは言うまでもない。「教育の脱学校化」などというものは、そもそも本来ありえないことなのである。なぜなら、そもそも本来教育が意図するところとは、すなわち学校化であるというのに他ならないのだから。
 そしてまた、教育の脱学校化を企て、その成功を意図する考え方それ自体が、すでに「学校的な発想にもとづいている」のである。つまりそこにはすでに、教育の脱学校化という「結果」が前提されているのであり、その結果から逆算された過程を、「脱学校化」という言葉に表象して見出しているのにすぎないのだから。要するにそれ自体がすでに、極めて「学校化した企て」なのだ。
 その上さらに「教育の脱学校化」という矛盾した企てを、「学校の中で育てられた人々が、そのためのリーダーシップを発揮すること」に、その成功の可否を期待し委ねるなどということもまた、上記と同様に、そもそもから矛盾をきたした企みであるのに他ならない。
 「学校の中で育て上げられたリーダーたち」が、何らかの意図のために一定の能力を発揮するよう期待するというのは、つまりは「彼らがある一定の行動様式にもとづいて行動することを期待する」ということである。その上でさらに彼らのことを、「脱学校に向けたリーダーシップを発揮するべき人々として見出す」ということは、要するに彼らのことを「有用な人間として見出す」というのと全く同義のことなのである。それこそがまさしく本来的な意味で「教育が意図するところ」なのであり、その意図したところを実現することこそが、本来的な意味での「学校の機能」なのだ。
 そして、改革的なリーダーシップを発揮してくれるであろうことを期待する彼らに、実際その期待した通りの行動をしてもらうためには、たしかに学校の中でそのように育て上げ、そのあらかじめ意図された方へと仕向けていく必要があるだろう。とすればこのようないかにも「学校的プロセス」を、あろうことかイリッチ自身が認めているというわけである。つまり彼の企みとは、「脱学校化を、教育の意図と学校の機能に依存して成功させる」というようなものとなり、これは彼の主張からして全く本末転倒な話なのであり、矛盾と不条理に満ち満ちたものとなってしまっているのではないだろうか?

 このようにして、イリッチ自身がまず何らかの有用・有益な結果を求めようというところからこの議論を始めてしまったことに、脱学校をめぐるさまざまな「思い違い」が生じるその要因になっているというのは、実はどうやらありそうな話だと考えなければなるまい。あるいはイリッチ自身が本当にあまりにも無邪気すぎたがために、どうやらそのあたりのことを自分でもよくわかっていないまま、ついうっかりそのようなことを言ってしまっていたのか。きっとそのどちらかであったのだろうし、きっとそのどちらでもあったのだろう。

〈つづく〉
 
◎引用・参照
※1 イリッチ「脱学校の社会」東・小澤訳
※2 イリッチ「脱学校の社会」東・小澤訳
※3 イリッチ「脱学校の社会」東・小澤訳
※4 イリッチ「脱学校の社会」東・小澤訳
※5 イリッチ「学校をなくせばどうなるか?」松崎巖訳(『脱学校化の可能性』所収)
※6 イリッチ「脱学校の社会」東・小澤訳


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