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犬による自己家畜化と携帯電話による自己家畜化と

 デジタルネイティブみたいな言葉があるけれど、言葉を喋る前とか、何かを好きになる前から、タブレットやテレビでひたすらコンテンツ消費をして時間を過ごすようになったということでは、ここ数年で、生きていることをどんなふうに楽しむのかというレベルで、生き方がデジタルネイティブになった世代が育ち始めている感じなのだろう。

 近年の新入社員くらいでも、デジタルネイティブだと言われてなるほどなと思えるけれど、赤ちゃんの頃から携帯電話の画面を見詰めてきた今の小さい子供たちとか、そこまでじゃなくても、子供時代の遊びの大半がコンテンツ消費になった、今から思春期を迎えるくらいの子供たちが大人になったときには、もっと大きなギャップがそこで明らかになったりするのかもしれないと思う。

 俺の場合は、携帯電話を持ったのが十八歳のときで、携帯電話でインターネットをブラウザで見たり、いろんなアプリケーションを使うようになったのは、三十歳を過ぎてからだった。

 携帯電話がなくなったとして、それがどんな生活なのか想像できるし、人付き合い的には不便だろうけれど、今はあまりひとにも会わなくなったし、携帯電話なしの生活をするのはさほど難しいことではないように思う。

 携帯電話だけじゃなくて、パソコンでのインターネットも使えなくなったとしたら、あまりにも大きく生活が変わってしまうし、どんなふうに生活することになるのかは想像できるけれど、さすがにそれはあまりにもきついなと思う。

 世界からインターネットが消えてしまうのなら、それはそれでかまわないけれど、自分だけインターネットを使うのをやめないといけないのなら、とても悲しくなるのだろうし、つまらなさすぎて、このまま付き合うひともいないまま独身が続くなら、またゲームをやり始めるようになるのかもしれない。

 けれど、小学生の頃から好きに使えるタブレットがあって、ずっとそれを触って、携帯電話も中学生の頃からずっと使っていたようなひとたちは、そんな程度ではないのだろうと思う。

 携帯電話なしでインターネットもない生活というものを想像できないし、実際にそうなったときに、人生をやり直すような感覚になるんじゃないかと思う。

 俺は携帯電話とインターネットがない世界で思春期を通り過ぎた。

 それなしの世界で育った人間として、新たに登場した携帯電話やインターネットに適応しつつ生活している世代の人間という感じなのだろう。

 特に俺みたいに、ミクシィもフェイスブックもインスタグラムも、ソーシャルメディア上に自分の情報を投稿するようなことを今まで全くやってこなかったから人間からすると、若いひとたちのように、そういうものありきで友達の中での自分や、社会の中での自分を感じながら生きてきたひとというのは、自己イメージを形成しているパーツの種類がまるっきり違っていたりするのだろうなと思う。

 もちろん、昔からテレビが大好きで、友達や同僚と毎日テレビの話をしていたようなひとたちなら、ただそれがひとと会っているときだけじゃなくて、携帯電話で一日中になったというくらいの違いで、メンタリティ的に変化したという実感はなかったりするのかもしれない。

 けれど、もともとコンテンツ消費で自分を楽しませることを中心に生きてきたようなひとも、テクノロジーの進歩によって生活は変わったし、一人でいる時間の過ごし方や、一人でいる時間の中で考えることは大きく変わったのだと思う。

 何か楽しいことをして暇をつぶすということについて、どこかの時点で一線が超えられてしまった感じはする。

 何でもすぐに検索できてしまうとか、何でもすぐに他人の意見を見られてしまうとか、無限に暇つぶしができてしまうとか、無限に漫画とかポルノを見られてしまうとか、自分の携帯電話があって、家のインターネット回線でいくらでもインターネットを見ていられるというのは、自分が育った世界とはまるで違う世界なんだろうと思う。

 どういう世界で生まれ育ったのかということの違いは、それなりに大きなものなのだ。

 家畜化という概念があって、人間が家畜として飼いならすようになると、どの動物たちも、繁殖期間が短くなってたくさん子供を生むようになって、気性が穏やかになって、警戒心や不安感が弱まっていくらしい。

 そして、病気に弱くなったり、他の動物から身を守れなくなって、人間の助けなしには生存環境の確保もできなくなってしまうから、猫は大丈夫らしいけれど、犬や乳牛なんかは、野生に放したとしても生き延びていくことができなくなっているらしい。

 人間の言うことを聞きやすくなって、牛乳をたくさん絞ることができるようになったし、子供もたくさん産むようになったけれど、人間が用意した環境で、必要な管理をされている状況でしか生きられなくなっているのだ。

 そして、それは人間だって同じなのだ。

 文明化された社会を生きるようになって、人間も多産になったし、攻撃性も弱まったし、原始人には作れなかったものをたくさん作れるようになったけれど、人間も家畜動物と同じように、人間飼育場である国家とか社会から追い出されてしまうと、生き延びていくことができないように変化してしまっているのだ。

 他にも家畜化の典型的なパターンはいろいろあるようだけれど、身体が小さくなって、脳が小さくなるというのもあって、人間にしても、ネアンデルタール人よりも体格や筋力でも劣るし、脳も小さくなっているらしい。

 ネアンデルタール人とホモ・サピエンスとの比較だと、ホモ・サピエンスに分化した時点から、ネアンデルタール人とは体格や脳の大きさに違いがあったようで、全てが家畜化の影響というわけではないのだろう。

 それでも、人間は原人から分化した頃の人間と比べると、明らかに家畜化的に種としての性質が変化しているらしい。

 自分たちの生存環境を自分たちで作り変えていくことで、新しい環境に適応して家畜っぽくなっていったという意味で、人間は自己家畜化されてきた種ということになるのだ。

 人間ほど種の元の性質から家畜化された動物はいないだろうというほど、人間は昔の人間から変化しているらしい。

 現代人だって、もう昔から定住生活を始めたり、文明化したりでさんざん変化したところから、近代化して大きく変化して、戦後は衛生面と栄養面でまた変化して、そして、インターネットにつながった端末と一緒に生活するようになったことで、今もまた急激に変化していっている途中なのだ。

 君の頃には定説になっているかもしれないけれど、犬と過ごすようになって、人間は種として大きく変化したという説がある。

 人間は文明と呼べるほどのものがない時期からオオカミと共同で生活するようになっていて、人間が人間らしくなったのは、オオカミとの生活の中でオオカミの社会構造を模倣することによってそうなったのだろうということらしい。

 チンパンジーは集団で大きな動物の狩りをしないけれど、オオカミは集団で狩りをする。

 チンパンジーでは親子関係を中心にした友好関係を持つけれど、オオカミは同性の非血縁者間でも友情的な関係を持つ。

 他の霊長類がしなくて人間だけがする行為のうち、オオカミがしていることがたくさんあるのだという。

 人間がチンパンジーのような存在であってもいいはずだったのに、人間的になったのは、オオカミが人間と暮らす中で家畜化されていったイヌのおかげだったのかもしれないんだ。

 オオカミはイヌになって、イヌも人間に飼いならされていく中で、脳が一〇パーセントから三〇パーセントくらい小さくなったらしい。

 狩りの仲間として飼いならされることで、狩りに必要な機能は維持しつつ、安定的な環境で生活できるようになって、危機を回避するための機能を中心として脳が衰えていったのだ。

 そして、人間も、人間が飼い犬を埋葬する習慣を始めた頃から、脳が一〇パーセントくらい小さくなっていったことがわかっているらしい。

 人間の場合に衰えたのは、狩りに必要だった知覚的な能力だった。

 犬が獲物を見付けて追い込んでくれるようになって、人間は道具を使ってしとめればいいだけになったということなのだろう。

 それは一万年前の話だから、人間社会が文明化されたことによって、知覚的に鈍感でも安全に生きていけるようになったことで退化したということではない。

 まだ生身で狩りをしている頃に、狩りをしながら生きる動物でありながらも、犬と生活することで、狩りに必要な知覚的な能力や臭覚などを犬に頼って生きるようになったということなのだ。

 そうやって知覚的に鈍感になった代わりに、特に退化しなかった知能的な能力を発揮することに専念して、オオカミに教えられた集団の横のつながりによって、知的な情報を交換し合うようになって、それによって急速に自分たちの生活を進化させてきたという流れだったのかもしれないのだ。

 ネアンデルタール人はオオカミと暮らしていた形跡がなくて、人間ほどは大きな集団を作って生活することはなかったし、人間ほど道具を作らなかった。

 体格や脳の容積で劣る人間がネアンデルタール人よりも繁栄して生き残ったというのは、人間がオオカミを仲間として暮らすようになったからだという仮説は、かなり説得力がありそうな感じがする。

 興味があったら、君がこの手紙のようなものを読む頃にはもっとはっきりしたことが解明されているだろうから、調べてみるといいのだろう。

 とにかく、人間はそんなふうに、どういう環境でどんな生活をするのかということに種のあり方のレベルで影響を受けながら遺伝子をつないできたということなんだ。

 そうしたときに、昔は犬と一緒に狩りをして暮らしていたのが、農耕生活に入ったひとたちは人間同士の複雑なあれこれに適応しなくてはいけない生活になって、そして、何千年かそんなふうにやってきたのに、今は人間の顔を見詰めている時間よりもスクリーンを見詰めている時間の方が長い生活になってきた。

 それは人間のパートナーの変化という意味で、オオカミとの出会い以来の大きな変化だったりするのだろうと思う。

 人間は今現在、新しい方向性の自己家畜化を一気に進めている最中ということかもしれないんだ。

 人間は自分に与えられた環境に適応するために自分たちを変化させてきた。

 それはもちろん、いつでも手元にある端末からインターネット経由でいろんな情報にアクセスできるということだってそうなのだろう。

 もうすでに、携帯電話以降で大人たちの知的能力は明確に低下しているのはわかっているらしい。

 もう少しすれば、脳の容積もこの二十年で変化したというような研究結果が報告されることになるのだろう。

 それこそ、人工知能がもっと進歩したら、昔犬と一緒に生きていたみたいに、ひとはそれぞれに自分のパートナーとなるロボット的な存在と一緒に生きることができるようになるのかもしれない。

 そうなったら、人間の脳はどうなるんだろうと思う。

 仲間の大切さとか、仲間と一緒に生きていくことを教えてくれる犬と暮らすようになる以前以後と、自分専用の何もかもをお膳立てしてくれるロボットと暮らす以前以後と、人間はどっちが大きく変わるのだろうかと思う。

 ロボットの前段階として、個々人が自分用のスクリーンを覗き込んで、その画面の中のことで一日中暇をつぶしていられるようになったという変化が最近人類史に起こったとするなら、君はそういう端末を手にして生きる人生だけしか知らないような世代の初期グループになるのかもしれないんだ。

 テレビの登場以降、スクリーンに向かって無表情で過ごす時間が増え続けているというのだって、そういう方向性での家畜化の進行のあらわれなのかもしれない。

 自分が他人と楽しくやれなくても、インターネットにつながったスクリーンというパートナーが楽しいことをやってくれるから、人間は自分で表情を作る必要はなくなってきて、それで人間はたくさんの時間を無表情で過ごすようになってきたということなのかもしれない。

 相手が自分を見ているからと表情を相手と確かめ合い続けるのは、いくら意識しなくても勝手に気持ちも表情筋も動くからといって、疲れることではあるのだ。

 人間は自分がいい気になれるように争い続けて、それ以外だと、とにかく疲れないですむようにと文明を進歩させてきた。

 そう考えれば、会わずにすむし、喋らずにすむし、表情を作らずにすむ世の中になっていくというのは、いかにもありえそうな未来像ではあるんだろう。

 インターネットにつながった端末をいつでも手元に置いておけるようになったというのは、それくらい人間にとって大きな生活の変化なのかもしれないんだ。

 もちろん、電気とか電信とか交通手段の発達とか、人間の生活を大きく変えたものはたくさんあるのだろう。

 けれど、犬との生活が人間という動物の習性や脳が変わるくらいに心を変えたように、心を大きく変えるということでは、アミニズムとか、キリスト教とかイスラム教とかの宗教の誕生によって、現実を生きていくうえで、脳内で非現実的な超越的な存在に見守ってもらっていながら生きるようになったという変化よりも、インターネットにつながった端末を手放すことのない生活になったことの方が、人間の心を大きく変えてしまう変化になるんじゃないかと思う。

 そんなにまでタブレットは強力で、それは現実よりも心地よいということでは、今までに問題になってきた強力なものと比べても、さらに人間の根深いところにまで影響を与えていくのだろうと思う。

 人類の歴史では、ずっと現実より楽しいものが存在するということについて、それでいいのかと議論されてきて、法律や宗教の戒律でいろんなものが禁止されてきた。

 セックスもそうだし、アルコールや、アヘンやらコカインやらMDMAやらのドラッグにしてもそうだし、ギャンブルにしたってそうだろう。

 世の中を見ていれば、ドラッグの方が現実の自分の生活よりもそこから引き出せる快感が大きいというのは明らかなのだろう。

 金を持っているひとなら、しんどくて強烈につまらない気持ちでいっぱいになるとドラッグにいってしまう。

 金や仕事の面で難しかったり、精神的に小市民だったりすれば、ドラッグは避けて、アル中になったり、ギャンブルにはまったりする。

 そういうものというのは中毒性のあるものばかりだけれど、中毒だから気持ちいい部分もあるにしろ、中毒とその解消の心地よさだけで現実よりも心地よくなれているというわけではなくて、ちゃんとそれ自体が与えてくれる精神状態というのが現実じゃないみたいに気持ちいいことで、現実よりも気持ちよくなれているのだろうと思う。

 もう君がこれを読んでいる頃にはほぼ文化として消え失せているのかもしれないけれど、喫煙やニコチン摂取を考えてみると、欠乏感とその解消の心地よさとか、心拍数の上昇とか、吸うたびにドーパミンが得られるとか、成分の身体への効果はあるけれど、かといって、タバコで人生を持ち崩すということはありえない。

 それは単純に、タバコの効用はそのひとの価値観を変えるほどの体験とはならないからだろう。

 生活の中でストレスが多い時間が長かったり、脳の消耗が激しい活動を長時間するひとが、こまめに気分がよくなるのには大きな効果があるけれど、その程度のことでしかなかったりする。

 タバコは体験というより物質の摂取なのだろう。

 そういう場合、中毒になったり中毒でなくなったりすることには、それほど大きな意味があるわけではないのだろう。

 タバコの身体へのダメージはそれほど大きなものではないし、そういう面も含め、タバコを失ったからって、人生は特に変質したりはしないのだ。

 タバコ以外のものでも、砂糖はタバコ以上に健康を害するかもしれないけど、カフェインであれば、極端な摂取をしなければ、軽く中毒になっているくらいなら何も不都合はないのだろう。

 それにしても、成分の摂取をしているだけだから、中毒になっても問題がないのだ。

 そういう意味では、スクリーンを見詰めるゲーム中毒もポルノ中毒もSNS中毒も、自分の生活よりも、それに触れている方が快適で幸福感も強い時間を過ごせてしまうのだし、それはむしろドラッグとかギャンブルに近いものとして人間に作用しているということなのだろう。

 体験として実人生より心地よくなれるものに中毒になれるとなったときに、話は変わってくるのだ。

 昔から、中毒だと言われないだけで、延々とテレビを見ていて、テレビを見ていれば楽しいというひとがたくさんいた。

 日々の中で何かを思うということが、ほとんどテレビを見ていて思ったことしかないというひとが、老人を含めれば今でも日本だけで数千万人いるのだろう。

 やらないといけないことはやっているし、誰かと喋ったりもしているけれど、生きていて何をしているかということだと、現実を生きているというより、テレビを見ているというのが実際なところになっている人生というのはありふれていて、そういうひとたちの大半はとっくに自分らしい感じ方といえるようなものを自分で見失ってしまっているのだろう。

 昔から、スクリーンによって人間は家畜化されてきたのだ。

 けれど、それは働いていなかったり、働いているにしても家畜のように働かされているような、やりたいこともない、暇なひとたちの自己家畜化という範囲ですんでいたのだ。

 インターネットにつながった端末がいつでも手元にあって、何かあるたびに延々と楽しい気持ちで時間を過ごせるようになってきたというのは、それをはっきりと次の段階に進めるものなのだろう。

 それは大人も子供も若者ですらそうなっていくような、人間全体の価値観を一気に転換させていくような、さらなる徹底的な家畜化の準備が完了したということなのかもしれないんだ。


(終わり)

「息子君へ」からの抜粋となります。

息子への手紙形式で、もし一緒に息子と暮らせたのなら、どんなことを一緒に話せたりしたらよかったのだろうと思いながら書いたものです。


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