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カノン

人生で一度だけ、調律師と話したことがある。
19歳、上京後半年、勤めるレストランで。
 
秋めく午後、喫茶タイムに突然現れた。
「樋口です。よろしいですか」
いきなり要件も言わずズカズカ入り込んで私はあたふたしていた。直ぐに奥から店長が来て応対した。曰く付き合いの長い調律師らしい。
 
濃灰色のスリーピースに淡いブルーのシャツ、ストライプのネクタイ。上等そうな革の腕時計にアタッシュケース。アンティークな茶色い革靴。気難しそうな顔にはラウンドの眼鏡。中肉中背の初老を迎えた男性だった。
 
厨房からも男性が駆り出され、普段窓際に置くピアノを数人がかりで部屋の真ん中まで移動した。店長は彼の傍にグラスを置き、水だけを注いでバックヤードに戻っていった。
 
ディナータイムへ向けてセッティングする音、そしてピアノの単音だけがポーンと響く閑散とした店内だった。私ははじめて見る調律師の仕事に興味津々だった。彼はジャケットを脱いで腕まくりをし、黙々と作業をしていた。グラスが空になったのを見計らっては水を注ぎに行き、彼の仕事を覘いてみた。何をしているのかはさっぱり分からなかったが、特別な光景である気がした。
 
どうやら一通りの仕事が終わったらしい彼は椅子にもたれ溜息をついた。私はまた水を注ぎに行く。
 
「ありがとう」
声をかけられた。戸惑った私は早口で言った。
「お疲れさまです。あの、よかったら、珈琲でもどうですか」
勢いで言ってしまった。私にそんな権限はないし後で怒られるかもしれないが、それくらいの事はしていいと思った。誰もいない店内だ、ご愛敬で済ませられる。
「じゃあ」
私はカウンターに行きマンデリンを挽いてドリップした。彼は一口啜って「うん」と言った。味の感想は言わなかった。
 
「ピアノ弾くの?」
「聴くの専門です」
 
向こうから話しかけてきた。私が話したそうにしてるから気を使ったのか、彼も話し相手が欲しかったのかは分からない。彼の口調は見た目に反してブッキラボウだった。
 
「何?」
「プーランクとか、バルトークとか…」
「渋いね」
「調律して長いんですか」
「うん、四半世紀くらい」
「うちの店もずっと?」
「ああ、相変わらず糞みたいな管理してる。窓際に置くなって言ってんのに直さねぇんだ。見栄えばっか気にして。だから料理も糞なんだ」
 
彼は思いのほか口が悪かった。ピアノは直射日光に弱いらしい。にしても辛辣な物言いだった。
 
「なんで調律師になったんですか」
「本当に興味あって聞いてる?」
「はい…」
「成り行き」
 
段々話すのが億劫になってきた。
 
「ピアノ、弾けるんですか」
「弾けなくても調律師にはなれる。それがこの国の糞なとこだけど」
「樋口さんは、さっき弾いてましたよね」
「でもピアニストじゃない」
 
遠回しに樋口さんの演奏を聴いてみたい、と言ったのだが、暗に潰されてしまった。なんだか悲しくなって黙してしまった。話し込み過ぎると怒られそうだし、お客さんもそろそろ来る時間帯だった。私はここで話を切り上げることにした。
 
「じゃあ、そろそろ」
「何?」
「仕事サボり過ぎると怒られるんで」
「聴かないの?」
 
彼は閉じた屋根を開け始めた。どうやら何か弾いてくれるらしい。
 
「いいんですか」
「だから、何?」
 
さっきの「何?」は何が聴きたい?という意味だったらしい。
 
「スティーブライヒの…」
「ピアニストじゃないって。馬鹿だろ」
「モーツアルトのファンタジア」
「楽譜無い」
 
逆に、この人は何が弾けるんだろう。悩んだ末に閃いた。
 
「カノン、お願いします。パッヘルベルの」
 
そんなのでいいの?という顔をしていた。そんなのでいい。私が子供の頃、唯一弾けるようになろうと練習した曲だった。結局手が小さすぎて才能がないと言われピアノを諦めた少し苦い思い出もある。でも、今はその曲が聴きたかった。
 
樋口さんは楽譜もなしに弾き始めた。彼の口調からは想像できない穏やかな、柔らかい音色だった。懐かしい感じがした。弾いている時の樋口さんはどこか物憂げで、窓辺から差し込む赤い夕焼けが、樋口さんの顔をとても儚く幼げに見せた。20代の青年のようだった。私の眼は何故か潤んでいた。それが原因なのかもしれない。とにかくその時間は私の人生の中で最も特異で、最も原初的で、最も美しい、不思議な記憶となった。
 
何分演奏したか分からない。いつの間にか演奏は終わっていた。厨房から顔を出したシェフたちが鳴らした拍手で私はふと我に返った。樋口さんはシェフに向かって「片付けといて」とピアノを指さした。腕まくりを直し、ジャケットを羽織り、アタッシュケースを持ち玄関に向かった。
 
「蓼原によろしく」
店長の名前だ。
「あと珈琲、美味しかったよ」
樋口さんは手を差し出した。別れの握手だった。
 
私は樋口さんに演奏の感想を伝えていない。どう言葉にすればよかったのだろう。今でも分からない。ただ別れ際「ありがとうございました」この一言しか言えなかった。でも、その一言で十分だった気もする。サヨナラと握った樋口さんの手は、私と同じくらいに小さかった。

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