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アンティークコインの世界|フランス支配下のスペインコインとスラブのおはなし

今回は、フランス支配下のスペインで発行された20レアル銀貨を紹介する。非常にセンシティブな時代のコインであり、スペインで発行されたものの、フランス人の王の肖像を刻んでいるという少し風変わりなものである。19世紀ヨーロッパの歴史の動乱を感じることができる面白いコインであるため、是非この場で紹介していきたい。また、プレビューの画像を見てお分かりだと思うが、本貨は特殊なプラスチックケースに保管されている。これはアメリカの鑑定会社によってホルダリングされたもので、スラブと呼ばれるものである。今回は、このスラブと鑑定会社による評価数字について少しだけ触れようと思う。

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本貨はアメリカの貨幣鑑定機関PCGS(Professional Coin Grading Service)によって鑑定されたコインである。PCGSは、真贋を判定した上でコインに評価を付けるサービスを提供している。これにより、コイン収集家及び投資家は安心してコインを買い求めることができるわけである。また、評価を数値化・明確化したことにより、人々がコインの価値を可視化することができるようになった。この評価システムは画期的なものであり、現在のコイン売買では欠かせないものとなっている。

鑑定依頼後は、コインの評価数字が記されたラベルを貼ったスラブと呼ばれるプラスチックケースに入った状態で、持ち主の手元に戻ってくるようになっている。だが、レプリカ品の場合はスラブに入らず、フェイクであることを注記した紙製ラベルだけが付属して戻ってくる。スラブはコインの保管においても最適な環境と言われており、空気に触れることで発生する劣化を防ぐ役目を担ってもいるという。ただ、こうしたサービスが本格化したのが近年のことであり、半世紀後にスラブの中のコインがどのような状態を保っているのかは、現状では誰にも分からない。


下記、本貨の基本情報を列挙する。

図柄表:ジョセフ・ナポレオン
図柄裏:エスカッシャン
発行地:スペイン王国マドリード造幣局
発行年:1810年
エッジ:リーディッド(偽造対策のギザ)
銘文表:IOSEPH. NAP. DEI. GRATIA ·1810·(ジョセフ・ナポレオン 神の恩寵による 1810年)
銘文裏:HISPANIARUM ET IND. REX. M. A. I. 20 R.(ヒスパニアとインドの王 マドリード造幣局 発行担当者イニシャルA.I.)
額面:20レアル
材質:銀(.903)
直径:41.0×2.0mm
重量:27.08g
分類:KM551.2
状態:EF Toned
評価:PCGS AU58


ジョセフ・ナポレオン(在位:1809〜1814年)の肖像を描いた20レアル銀貨。ジョセフ・ナポレオンは、フランス皇帝に上り詰めたナポレオン・ボナパルトの兄である。ジョセフはフランスの後ろ盾を得て、スペイン王の地位を手にした。だが、その治世は非常に不安定なもので、彼の治世は長く続かなかった。

この20レアル銀貨は、バルセロナ、マドリード、セビーリャの3つの造幣局で生産された。下記、分類番号が異なるため、ミントごとの番号を列挙する。加えて、発行枚数も併せて明記する。

分類は、下記の3つが存在する。

1)KM551.1 Barcelona
2)KM551.2 Madrid
3)KM551.3 Seville


下記、発行年と発行枚数の一覧である。括弧内には分類番号を示した。年号の後ろに続くアルファベットは、貨幣生産を管理するコントロールマークであり、造幣官のイニシャルを示している。

1808 AI 17,000枚(KM551.2、Cal23)
1809 AI 700,000枚(KM551.2、Cal24)
1810 AI 993,000枚(KM551.2、Cal25)
1810 IA 不明(KM551.2、Cal26)
1811 AI 不明(KM551.2、Cal27)
1811 AI 460,000枚(KM551.2、Cal29)
1811 B 不明(KM551.1)
1812 AI 250,000枚(KM551.2、Cal30)
1812 B 不明(KM551.1)
1812 LA 不明(KM551.3、Cal#35)
1813 RN 68,000枚(KM551.2、Cal31)


不明と表記した箇所は発行枚数が未確認ではあるが、その数は比較的少ないものと思われる。全体的にどの年号も判明しているものは発行枚数が多いものの、ジョセフの退位によって本貨はそのほとんどが回収され、溶解されてしまったため、良好なコンディションで現存するものは意外にも少ない。

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銀貨特有のトーンが美しい良好な状態。表側に描かれたジョセフの肖像は、敢えて冠を載せていない無冠の姿で描かれている。風でうねるような髪の毛の描写が印象的で、目にも瞳が描かれており、今にも動き出しそうな生命感が宿っている。彫刻師の高度な腕前が感じられる逸品である。

肖像の周辺には、ラテン語で「IOSEPH. NAP. DEI. GRATIA ·1810·」という銘文が打たれている。和訳するなら、「ジョセフ・ナポレオン 神の恩寵による 1810年」の意となる。

前述したが、ジョゼフは、フランス皇帝ナポレオン1世の兄だった。本貨はナポレオン・ボナパルトによるスペイン占領後、フランス軍によってスペイン王に担ぎ上げられたジョゼフの治世に発行された。フランスの後ろ盾で王位を得たジョセフの治世は、現地スペイン人の激しい抵抗によって全く安定しないものだった。この抵抗運動は、ゲリラと呼ばれた。現在でも「ゲリラ戦」という言葉が使用されているが、語源はこのスペイン人によるフランス人君主の排斥運動にあった。

1808年からのスペイン独立戦争でナポレオン率いるフランス軍に蜂起したスペイン人が採った戦術は、ゲリーリャ(小さな戦争の意)と呼ばれるものだった。これが現在使われているゲリラの語源である。この呼び名は19世紀初頭のスペインが発祥のものの、作戦としてのゲリラは古代ローマ時代から既にその存在が確認できる。トイトブルク森の戦いで、族長アルミニウス率いるゲルマニアの部族集団が、プブリウス・クィンクティリウス・ウァルス将軍率いるローマ帝国軍に対して行った作戦がゲリラ攻撃である。帝政初期に行われたこの激戦で、ローマ帝国は保有する30個軍団のうち、3個軍団を失う大損害を被った。実に帝国全体の10%に及ぶ兵力がこの戦いによって消失したのである。司令官ウァルスはこの大失態の責任を取って戦闘中に自害するに至った。時の皇帝アウグストゥスは、ウァルスに指揮を任せたことによって自軍の兵士が大量に失われたことを酷く嘆き悲しんだ。


下記、せっかくなのでウァルスの経歴を簡単に記載する。

プブリウス・クィンクティリウス・ウァルス
羅:Publius Quinctilius Varus
生没:前46年〜後9年

ウァルスは北イタリアの都市クレモナで、貴族階級の家庭に誕生した。ウァルス家は、父と祖父共に元老院議員を務める有力氏族だった。ウァルスの父は共和政期に反カエサル派であり、ポンペイウス側を指示していた。だが、息子のウァルスは、カエサルの後継者アウグストゥスを支持している。

前14年、アグリッパの娘ウィプサニア・マルケッラを妻に娶り、アウグストゥス、アグリッパと縁戚関係を結んだ。マルケッラはウァルスの2番目の妻であり、彼は血縁上アグリッパの義理の息子となった。そのため、前12年のアグリッパの葬儀では、ウァルスが弔辞を担当した。

アグリッパの死後は、クラウディア・プルケラという女性と3度目の結婚をしたことが記録されている。マルケッラとの関係がなぜ終わっているのかは、記録がなく判然としていない。離婚なのか、死別なのか、全くの不明である。ちなみにプルケラはアウグストゥスの姉オクタウィアの孫である。3番目の妻も皇族の家系から娶ったわけである。家系図が少し複雑となるが、ウァルスはアウグストゥスの義理の大甥という関係性になった。

こうしてウァルスは、アウグストゥスから絶大な信頼をおくようになった。それゆえ、ウァルスは後の皇帝ティベリウスと共に前9年にコンスル(執政官)に就任している。執政官の任期満了後は、プロコンスル(執政官経験者)として、アフリカ属州総督、続いてシリア属州総督と統治の難しい東方エリアの統治を任された。その後、反乱の絶えないゲルマニア属州の総督に就任する。後9年のトイトブルク森の戦いでは、インペラトール(最高軍司令官)として第17軍団、第18軍団、第19軍団を皇帝から借り受けて、反乱の制圧に出撃した。だが、戦いは惨敗に終わり、周辺諸国に帝国の恥を晒すに至った。

ユリウス・クラウディウス朝にその名を連ねるまでに至る立身出世を遂げたウァルスであるが、最後に大失態を犯し、不名誉な死に方でその生涯を閉じたことは皮肉とも言える。


また話が古代に脱線したので、19世紀スペインの話に戻そう。ただ、いろいろな語源や文化が、やはり古代発祥という点は面白いと思わないだろうか。人間の歴史は繋がっており、その繋がりを理解すると、歴史探求にさらなる深みが増す。というのは言い訳で、ただ古代が好きで、何でも古代に結び付けたいだけなのかもしれない。それでは、本貨の裏側のモティーフの説明に移ろう。

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裏側にはエスカッシャン(盾紋章)が描かれている。王冠を戴く盾には、城塞、獅子、鷲、植物、剣などが描かれている。造旨に優れた非常に美しい紋章である。

エスカッシャンの周囲には、表側と同様にラテン語で「HISPANIARUM ET IND. REX. M. A. I. 20 R.」と刻印されている。和訳すれば、「ヒスパニアとインドの王 マドリード造幣局 発行担当者イニシャルA.I.」の意となる。ジョセフがスペインとインドの王であることの主張であり、本貨がジョセフの名の下で発行され、20レアルの価値があることを保障する内容になっている。

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本貨に付けられたラベルについて、もう少し観てみよう。左上の「1810-M AI」これは年号と造幣地、造幣官を示している。右上の「20R」は20レアルという額面の略表記である。「PCGS」は鑑定会社の社名、「AU」とは、準未使用クラスを指す言葉で、僅かながら流通痕が認められるものの、良好な状態を保っていることを示している。AUの後ろに続く「58」とは評価数字であり、70段階存在する。66以上をハイグレードと認識する見解が多いが、この時代のアンティークコインであれば、58でもまずまずなコンディションと言える。AU58は英国式の評価方式に当てはめるなら「EF(Extremely Fine)」相当、日本式なら「極美品」という位置付けになる。このスラブの評価数字についてだが、モダンコインの場合は69以上は欲しいところで、銘柄によっては69でも厳しく、70が付かないと価値がさほど見出されないものもある。評価数字の下部にある「Spain」は言わずもがな発行国を示し、その下の「KM551.2」とは本貨の分類番号及び細分類を示している。


以上、今回はフランス支配下のスペインコインとスラブについてを紹介した。私はスペインという独特な文化を持った国が好きで、彼らが発行したコインにも、その魅力を人一倍感じている。スペインはかつてローマから「ヒスパニア」と呼ばれ、豊かな土地として帝国の発展に大きく貢献した。ローマの属州になる以前のヒスパニアについては文字資料がほとんどなく、今だにその多くが謎に包まれている。判明しているのは、イベリア語という地方言語が存在し、イベリア文字というギリシア文字由来のアルファベットが使用されていたことである。彼らはケルト人との交流も盛んで、次第に両者が混血したケルティベリア人ないしケルティベリア語というものまで誕生した。現スペインが位置するイベリア半島は、ローマ進出以前の先史時代は大きく分けて東西の二つのエリアに分かれていた。地中海側に面する東方はギリシア人との交流が盛んであり、彼らの文化影響を強く受けた痕跡が確認されている。一方、西方は東方の文化とは明らかに異なる独自の文化が形成されており、こちらの方がさらに謎が深く、ほとんど詳しいことは分かっていない。ローマ時代が終わると、スペインはその一部がイスラーム勢力の支配下に入った。その影響もあってヨーロッパとオリエントが融合した独自の文化が形成されている。それゆえ、スペインという国を一言で表すことは、すこぶる難しい。敢えて一言で示すとするならば、「複雑怪奇」な国という他ない。それぐらいスペインの歴史は複雑であり、しかしだからこそ一際興味深く、魅力を秘めているとも言える。「沈まぬ太陽」と形容された栄光の国スペイン。その魅力は、どれだけ追い求めても辿り着けないほど底なしである。


Shelk 詩瑠久🦋

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