夜桜とドッペルゲンガー
夜桜の木の下に、ドッペルゲンガーが立っている。
そいつは、私をじっと微笑みながら見つめている。近寄ってくるわけでもなく、何かしゃべりかけてくるわけでもない。
ただじっと、私のことを見ている。
軽蔑しているような、何かを透析しているような、そんなひんやりとした視線。
鋭く、かつ恐ろしいほどに冷たい視線が、ゆっくりと私の胸の中を搔き乱していく。
自分が犯した罪が表に出やしないかと怯えているときの、独特な焦燥感と胸の痛み。
そいつの視線に晒されるといつも感じる。冷や汗が首筋を伝い、呼吸の仕方が分からなくなる。
まるで、自分の体の中にゆっくりと浸透する猛毒を塗り込まれているような感覚に陥る。
少しずつ、少しずつ、その毒が全身に回り、最後音もなく私にとどめを刺すのだ。
そいつと目を合わせているだけで、視界が歪み、フラフラとしてくる。
「あなたはもうすぐ死ぬのよ」とでも言うような不敵な笑みを浮かべて、そいつは私をじっと見ている。
言葉に出来ない不気味な、背筋が凍るようなひんやりとした微笑み。
夜の静寂の中で、華やかな夜桜に囲まれ、そいつは木の幹から半分ほど自分の姿を覗かせている。
顔の半分と少ししか見えていないそいつは、私に笑いかけてくる。
「あなたは何者なの!」と叫んでみたいけれど、その言葉を発した瞬間に全てが凍り付いてしまうような気がして、どうしても聞くことができない。
——こいつは、私の姿をしているから。
自分自身の弱い部分、醜い部分を認めたくなくて自分から切り離そうとしたら、夢の中に出てくるようになった。
こいつは、私だ。
全体的に少し透明で、奥の暗闇が見えている。夜桜が彼女を透けて見えている。そいつは影を持たない。
彼女自身が影のような存在。
誰一人として、自分自身を悪だと認識している人はいない。いや、認識はしているが認めようとしないのだ。断固として。
実際、この世に悪など存在しない。
正義の反対は悪ではなく、別の正義。ただあるのは、「仕方がなかった」という言い訳だけ。
この世に自覚された悪など、存在しない。
潔白でありたい。綺麗でいたい。
私は、優しい、良い人でありたい。
しかし、自身がそう願う心とは裏腹に、自分は時としてとんでもないことをする。
人を利用し、自分さえ欺き、公正とは程遠い愚かな行いをする醜い生き物。
それが人だ。それが私だ。
人は、条件が揃えば簡単に悪へと成り下がる。
何か自分では受け入れられないことが起こる度に、『仕方がなかった』といって自分の心を落ち着ける。
実際、本当に悪意がある訳では無いのだ。
仕方がなかった——。
人は、迫り来る狂気を振り払うようにして生きている。
悪は必然だ。全員が悪だ。
潔白な人間はこの世界では生きていけないから。
生きているなら何らかしらのカルマを背負っている。
自分が悪であるということを認められないまま、長いこと苦しんでいると、別の人格が生まれてくる。
悪い自分も、醜い自分も、惨めな自分も受け入れられず、自分を騙して演じているうちに、自己正当化、自己防衛の為の予備人格が生まれるのだ。
自分の中に抱え込んでいた自己矛盾を次第に制御できなくなって、とうとう自身から切り離されてしまうのだ。
こいつは夢の中にだけ出てくる。
誰にも分からないように、人知れず私を殺そうとしているのだ。
なんて酷い人、なんて醜い人、なんて恐ろしい生き物、あなたに生きている意味なんてないのよ——そんな視線を送ってくる。
何か受け入れられないことが起こる度に、こいつが潔白な私を滅ぼそうとしに来る。
また、じっと私のことを蔑むように見ている。
胸の内側に真空空間ができたみたいに、ぎゅっと胸を絞られるような痛みが走る。
呼吸が、できない。
私は、この夢を週に3度ほど見る。
そして、目が覚めると布団やシーツは私の冷や汗で水浸しになっている。
荒い呼吸を静めて水を一気に飲み干す。
私の苦しみは、誰も知らない。
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