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祈りのカクテル

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祈りのカクテル.final

祈りのカクテル.final

「もう少し性愛について真っすぐ向き合われてはいかがですか」

 バーテンはうつむく私に向かってそう言った。

「先ほど、人は自然界から離れていっていると言いました。現代の生活習慣病や、精神疾患などは、自然界を離れた生き物として行き過ぎた行動を取った人達が罹ってしまいやすいものです。人は生き物です。言葉を話して文明の中で高度な暮らしをしていることは、何も当たり前のことではありません。よくよく考えたら

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祈りのカクテル.9

祈りのカクテル.9

 何故以前勤めていた会社が倒産したのか、その直接的な原因は、社長の失踪だった。

 平成元年創業の比較的年齢の若い企業ではあったが、社長がとても野心的な人で、人当たりも良く、短期間で地元との信頼関係も築き、太いパイプを持った地方の『看板企業』にまでなっていた。

 しかし、一時期『農業用トラクター』の生産部品に欠陥が見つかり、地元農家さんが大怪我をする事故が起きた。訴訟が起き、私が勤めていた会社は

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祈りのカクテル.8

祈りのカクテル.8

「彼らにとって社会生活を営んでいくということは、鉄球を足に括り付けて海を泳ぐような作業です。普通の人が簡単にやってのけることがどうしても出来ない。自分自身だけがどれだけ足掻いたって沈んでいく感覚に体がはち切れてしまいそうなほどの精神的ダメージを受けます。しかし、『生きずらい』などと言った日には、周りから『甘えている』とか『努力が足りない』といって罵詈雑言を浴びせられます。そうして集団との齟齬を感じ

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祈りのカクテル.7

祈りのカクテル.7

「私は、孤独感を感じることが、最も嫌いなんです」

 彼は黙って私の話を聞いている。

「ずっと、周りの意見を聞いていたんです。自分の意見を出すのが怖くて、集団から孤立することが怖くて、ずっと誰からも離れないように、一番人が多い集団の意見にひっついて生きてきたんです」
「ほう」
「でも、孤独感を紛らわすためにあらゆる選択を周りに委ねて生きていると、時折自分ではどうすることも出来ない虚無感のようなも

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祈りのカクテル.6

祈りのカクテル.6

「同時に二人の首を絞めたことはありますか」

 思索に耽っていたところ、思わぬ言葉が耳を刺したので、私は耳を傾けることにした。先程のバーテンが反対側のカウンターに座っている若い男性二人組に向けて話している。

「え、いやないです」
「そのうち、目覚めるときが来ますよ」
「マジですか」

 二十代前半であろうその二人は、文字通りきょとんとしていた。恐らく、あの二人は女性経験がないんだろう。反応を見て

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祈りのカクテル.5

祈りのカクテル.5

 目の前には壁一面のウォールアートがあった。

 高さ三メートルはあるコンクリート製の壁に、百種類を超える植物がぎっしりと植えられている。専用のライトと店内上部にある窓から差し込んでくる日差しを目一杯に吸収し、このウォールアートは日々変化している。

 少し間隔を空けて来ると、また違った一面を見せてくれる、この植物アート。前回来た時よりも心なしか壁が厚くなったような気がする。

 これが生き物を使

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祈りのカクテル.4

祈りのカクテル.4

 天神駅地下街を通り抜けると、そこには煌びやかな夜の街の喧騒があった。私は『からくり時計』の横を通り過ぎ、地上へと出た。

 私は飯塚市にある工場に勤務していたが、そこが社長の自殺によって倒産し、私は親戚の伝手を辿って福岡市内の小さな出版社に勤務するようになった。八木山を越え、飯塚市から福岡市内の新居へと引っ越してきてから、もう五年経つ。

 しかし、未だに天神周辺をうろつこうとすると、迷路に迷い

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祈りのカクテル.3

祈りのカクテル.3

 私が二十七歳のとき、ずっと勤めていた会社が倒産した。

 高校を三年生の後期に退学してから九年間勤めていた、大きな工場を抱えた地元では有名な会社だった。

 今会社の倒産の経緯について、詳しく触れることはしない。今ここで事細かに事情を説明すれば、あまりにも長い話になってしまうからだ。

 ただ、簡潔に一言でいうならば、社長が失踪したからだ。後に山奥で首を吊っていたところを発見された。

 幸い会

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祈りのカクテル.2

祈りのカクテル.2


《祈りのカクテル》草稿 

1998年12月9日 第一稿完成 大坪朱莉
            2001年3月4日 改編 窪田敏行

 私は作家としての活動を始めてから、一つ軸を持つことにしていた。

「自分が欲している言葉を紡いでいくこと」

 これが私の作家としての軸になっているものだ。

 何をもって作品を『完成した』とするのか、作品制作に迷ったとき、どこを目指して書き進めていくのか、終

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祈りのカクテル

祈りのカクテル

 大坪朱莉はこれまでの人生で選択というものから逃げ続けてきた。

 深く物事を考え始めると、不可逆的かつ不可避的な黒い渦に自身が絡めとられ、あっという間に黒い海の底に自身が沈められてしまうのではないかという本能的な恐怖を感じていたからだ。

 目に見えない流れに逆らわないように、川の流れに身を任せて遊泳する草船のように、朱莉は常に気を張り続けてきた。

 これまでのあらゆる選択を、周囲の意見を聞き

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