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祈りのカクテル.8


「彼らにとって社会生活を営んでいくということは、鉄球を足に括り付けて海を泳ぐような作業です。普通の人が簡単にやってのけることがどうしても出来ない。自分自身だけがどれだけ足掻いたって沈んでいく感覚に体がはち切れてしまいそうなほどの精神的ダメージを受けます。しかし、『生きずらい』などと言った日には、周りから『甘えている』とか『努力が足りない』といって罵詈雑言を浴びせられます。そうして集団との齟齬を感じて耐えられなくなった人達は、年齢と経験を重ねていくごとに、自身が持っている能力や情熱を封印し、社会へ溶け込もうとします。しかし、どこかで隠しきれない強烈な自我がやはり胸の内には存在していて、時折そいつが出てくるんです。特に、何かの節目や大きな空白の時間を手にしたときに」

「私、失業したんです」
「ほう、そうですか。良いことですね」
「そうですか?」
「たっぷりと時間があることは、良いことです」
「ありがとうございます」

「実際、普通の人達の方が勤勉なようにどうしても見えてしまいますが、本当の意味で戦っているのは彼らの方です。『上手く』生きていける人達は、自身の中から湧きあがってくる大切なものや願いを狡猾に無視する能力に長けた人達です。私は、彼らのような生活が恵まれているとは露ほども思っていません」

 真っ当に生きている人達を卑下しているようにも聞こえて私は少し抵抗感を覚えたが、思い当たる節がないわけでもなかったので、私は黙って頷いた。

「確かに、私も社会的な文脈に則った『正解』から、あえて『逃げる』という選択を取ろうとしていたことはあります。でも、私は結局いつも正解の方に流れてしまっていました」

「それはきっと、人生経験を積んでいく中で上手く自分自身を押し殺してしまう方法を身に着けてきたからです」

「はあ」

「欲しいものが手に入らないどころか、手に入れようとしただけで今持っているものまで懐から零れ落ちていってしまうのが、この人間社会というものです。しかし、いいですか、よく覚えておいてください。自分が欲しいものは、当然手に入るものだと思って、ゆっくり手に入れる心の余裕を持つべきなんです」

「当然、手に入る」

「そうです。世界的な資産家のウォーレン・バフェットは、自身が巨額の資産を築き上げることが出来た理由を問われて、こう答えました。『ゆっくり金持ちになったからだ』と」

「ゆっくり金持ちになる?」

「みんな、先を急ぎ過ぎなんです。ゆっくり進める気概がないんです。自身が欲しいと思ったものは、しっかりと待っていれば、必ず近い将来手に入ると、思っていればいいのです。バーテンダーに『シェリーをくれ』とでも言うように。気持ちが先に来ていれば、手段は後から付いてきます。あなたは、何が欲しいんですか。今、職を失って立ち止まり、次の一手を考えているんでしょう」

「そうです」
「何が欲しいんですか?」

 私は、と言いかけて言葉に詰まった。言いたいことが、上手く言葉になって出てこない。黒田さんは根気強く黙って私の次の言葉を待っている。

「上手く言葉に出来ませんが、今まで押し殺してきた自分の願望を、少しずつでもいいから全て叶えていきたいです。自分の人生に、彩りが欲しいんです。楽しいこと、好きなこと、やっていて虚無感や孤独感を感じないもので満たされていたいです」

「いいですね」
「私は何をすればいいんですか?」
「文章を書いてください」

 黒田さんははっきりと答えた。

「文章、ですか?」

「自身の中でうごめいているものを全て吐き出す習慣を身に着けておいて欲しいんです。吐き出せれば何でもいいんですが、文章を書くことが一番手っ取り早く、かつ正確に自身の中にあるものを観察することが出来ます」

「日記でもつければいいということですか?」
「そうですね。日記でもいいですが、作品を書いてください」
「作品?」

「小説でもいいですし、エッセイでも何でもいいです。とにかく、自分の中にあるものを外在化して、自己の中枢部分から切り離してください。あなたの中にあるものを、ぼんやりとでも放っておいたら、あなたはそいつに食い殺されてしまいます」

「分かりました」

 私はとりあえず頷くことにした。

「外部からの避けがたい影響によって自身が歪められてしまわないように、人は自らを変化させ続ける必要があります。周囲からの圧力に、負けてはいけません」

「はい」

 とりあえず、といって彼は続けた。

「自分自身を大切にすることです。他人の命が尊いように、あなたの命だって一様に尊いのですから」



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