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祈りのカクテル


 大坪朱莉はこれまでの人生で選択というものから逃げ続けてきた。

 深く物事を考え始めると、不可逆的かつ不可避的な黒い渦に自身が絡めとられ、あっという間に黒い海の底に自身が沈められてしまうのではないかという本能的な恐怖を感じていたからだ。

 目に見えない流れに逆らわないように、川の流れに身を任せて遊泳する草船のように、朱莉は常に気を張り続けてきた。

 これまでのあらゆる選択を、周囲の意見を聞きながら取ってきたのだ。朱莉には自我が無かった。

 ただ、寂しさや虚しさから逃避したいという欲求だけが強くあり、絶えず自身が周囲から孤立しないように、努めてきた。

 この物語は、朱莉が性愛について向き合うきっかけになった出来事について、ルポルタージュ的に自身でまとめた作品である。朱莉は作家として活動を初めて、歴十四年のベテラン作家になろうとしていた。しかし、この作品は未完となっている。

 朱莉が執筆途中に急死したからだ。

 胃潰瘍だった。三十代とそこらでデビューして、作家としてのキャリアを積み、作品を何遍も残し、吐血して死ぬ。奇しくも、かの文豪、夏目漱石と同じ死因だった。

 この作品は、幼馴染である窪田敏行がいくつかの手入れをして、まとまった作品として残している。彼女はこの作品のタイトルを『祈りのカクテル』とした。

 あくまで一介の草船として流れの中を遊泳する小さな存在だった朱莉が、濁流の中に突如として放り出され、もがき、自身の生きる術を導き出したその過程を、人に伝えるための作品であるということだ。

 彼女自身、数奇な運命を辿って人生の歩を進めてきたわけだが、彼女が葛藤の中で紡いできた言葉はきっと、誰かの力になってくれると私は信じている。

 彼女は常に、「私は『リアル』と『リアリティー』を分けて考えています」と言っていた。「作品を書く際には、自身の体験を一とすると、フィクションの要素を三から四程度の割合で混ぜ合わせて作品を書いているのです」と言っていた。

「創作活動は自身に溜まっていた歪みを埋めていく堆積、または排泄していく作業であり、そうして出来上がったものを他者が受け入れることが出来るものにするために、フィクションの要素を混ぜ合わせてリアリティーを作っているのです」と、彼女は言っていた。

 彼女はいつも、「私は神を生み出したい」と言っていた。

「あくまで宗教的な回心を人々に与えるものではなく、人の歩む道を照らす北極星としての、現実的な神を、私は生み出したいのです」と言っていた。

 しかし、彼女の願いは叶うことなく、胃潰瘍で死んだ。

 私は、彼女の遺志を受け継ぎ、何かしら、彼女の望んだ『神』に近い存在を作品として生み出せるのではないかと信じて、この作品を描いている。


 読者にとって、長く読み返せるものになっていれば嬉しい。
 亡き大坪朱莉に、敬意を表したい。



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