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エッセー
優生思想について

(一)

 僕は定年退職してから別の仕事を始めたが、病気になってその仕事も辞め、いまは治療に専念している。だから暇つぶしに文章も書けるわけで、仕事を続けていたら趣味の作文は続かなかったに違いない。志賀直哉は筆を折った理由を「エナジーが無くなった」と言ったが、歳を取ればそんな偉い先生もそうなのだから、僕だってどんどんエナジーを失いつつある。文才は別として、志賀直哉と僕の違いは、彼は若い頃から作文で稼ぎ、僕は稼ぎの悪いデスクワークでなんとか生計を立ててきただけの話だ。

 僕はサービス残業、休日出勤が当たり前のブラック企業で働き、40度の高熱で会社に出て肺炎に罹ったこともあった。そんな職場なら転職すればいいと思ったこともあったが、どこも似たり寄ったりだろうと諦めざるを得なかった。その最大の理由は、有能ではなかったことだ。よくテレビなどでハイクラス転職サイトの広告をしているが、広告内容のような有能な人間は一握りで、有能ではない(無能とは言わない)人間がほとんどだ。アメリカでは即クビでも、日本では何とか定年までクビにならずにやっていけただけ、定年制度がしっかりしていた時代に感謝かも知れない。なんたって僕は、子供の頃から詩人みたいにボーッとして、右脳の空回りで無益な妄想に耽っていた人間なのだから……。

 で、この有能・有能でない(以後、悔しいがあえて無能と言う)が、「優生思想」の大元の感情であることを知らない人が多い。できる子・できない子、東大・地方大、美人・不美人、天才・凡人云々、これらが優生思想の根源だとすれば、それは人類の普遍的感性で、忌むべき特殊感性ではないということだ。「優秀な受験生は入ったら学費免除!」なんて、明らかに大学が発令した優生保護法だ。僕のような子供は、親から「出来損ない」と言われることがよくあったが、この言葉ほど優生思想の端的な表記はないだろう。

 ひと昔前、「会社はひと握りの有能な社員と、その他の無能な社員で構成されている」という言葉を、某有名企業の会長さんの講演会で聞いたことがある。彼はきっと、無能社員を給料泥棒と思っていたのだろう。企業において、景気が良いときは、無能な社員でも給料は上がっていき、退職金を貰って円満に定年退職する。しかし景気が悪くなると、無能社員は定年前にリストラ(会社都合退社)を迫られる。企業を存続させるため、要らない社員は退職金を上積みされて半ば脅迫的に追い出されるわけだ。それに対して必死に抵抗すると、倉庫のような場所に人事移動させられて、陰湿な虐めが始まる。当然、仲の良かった同僚たちは自分も巻き込まれるのを恐れ、触らぬ神に祟りなしと遠のいていく。

 国は、こうした企業の集合体で運営されている。そして企業は、そこで働く国民の集合体だ。つまり、国と企業と国民は運命共同体というわけだ。しかしこの三者連合の中心にあるのは、国でも国民でもなく、企業なのだ。企業は製品やサービスを世界中に売りさばき、そこから得たお金を税や労賃として国や国民に分配しながら、国家は円滑に運営されていく。ならば実質的に、国は企業の上に位置するのではなく、企業の下に位置している。優秀な企業が多いほど、国も国民も豊かになる図式だ。

 もちろん、国を運営するのは〇〇党政府だ。しかし、その資金は企業や国民から得た税金だ。当然、国民から得た税は、国民が企業から得た給料から支払われる。だから中心にある企業の製品が売れなくなると、このシステムが崩れて、国も国民も窮乏することになる(自由業の方々もトバッチリを受ける)。

 いま取り沙汰されている企業献金の問題にしても、我々は企業と政府の癒着に腹を立てているが、政府の基本的な役目は、企業という親分がより儲けやすいように法律を作って、その環境を整えることなのだ。当然、それによって企業が儲かれば、国・企業・国民の三方良しが成立するわけだが、寄付金を貰った産業だけに肩入れすれば歪み(依怙贔屓)が生じ、他の産業に従事する人々の怒りを買うという図式だ。もちろん、三方良しで、みんな豊かになるといった単純な問題ではなく、世界中の政府と既存エネルギー産業の癒着が、地球温暖化を加速させてきたとすれば人類の未来に関わる問題で、トランプ政権の復活でさらに加速することを危惧している。

 一方、企業は政府の上にあるのだから、立場上、不採算企業でも政府は要望に従って補助金等で助けなければならないが、政府も財政がひっ迫していて、「生き返りそうもない産業には肩入れせず、放っておけ」などと産業リストラを主張する専門家も出てくるわけだ。要するにITのような有望な産業に政府資金を注ぎ込み、斜陽産業に余計な金を振り分けるなということだ。政府という頼もしい部下に裏切られた産業は、ご勇退ということになる。これは特待生制度の大学と同じで、大学(国)の存亡のために、みんなの学費(税金)が希望の星に注がれるということだ(私はジジイなので、恩讐の彼方にございます)。

 栄枯盛衰は地球生態系のシステムである。絶滅危惧種は、人の保護活動で息を吹き返す。しかし、それが絶滅したとしても、人の食い物でない限り直接的な影響はない。人が生き物なら、国・企業・国民も地球生態系の一システムだ。他生物の場合、基本的にシステム内の生き物が絶滅の危機にあるときには、人間様が助けなければならないが、面倒なら見捨てることも可能だ。けれど国・企業・国民は運命共同体だ。民(病人)は健保(国・企業)が助けなければ死ぬ。企業は国が助けなければ倒産する。国は民が助けなければ破綻する。これを世界に広げれば、世界市民が一丸となって助けなければ、散在する破綻国家は助からない。

 つまり三方良しの三方は、固い絆で結び付いている。そして、この「良し」という言葉は英語のWINで、「勝つ」と同義語だ。「勝つ」という言葉の裏には、「負ける」という言葉が貼り付いている。勝つ国の裏には負ける国がある。勝つ企業の裏には負ける企業がある。勝つ国民の裏には負ける国民がある。なぜなら、親分の企業はどれも常勝軍団を目指し、常に右肩上がりにならなければならないからだ。富というのは河ゴミのごとく、淀み部分に集積する。けれど地球という限られた資源の中では、全員が右肩上がりにはならないし、全員勝ちもない。発展国・衰退国、発展企業・衰退企業、成功者・不成功者(負け犬)、金持ち・貧乏人、エトセトラ、エトセトラ……。

 生態系においては、負け組は必要悪として存在する。日本はいまの時点では、一応勝ち組だ。専制であろうが、どんな政府でも国家統制が利いているうちは一応勝ち組だ。負け組の国家では、貧困で犯罪者やテロリストが増えて政府対抗勢力となり、社会秩序が乱れに乱れる。良い子の日本人はテレビニュースなどで、そんな国々をまるで別世界の出来事のように眺めている。しかしマフィアが政府に勝てば、議事堂を占領してそいつが国家権力になる。周りの国々が国家として認めないだけの話である。実際問題、一応勝ち組の国であっても、山賊のように隣国を侵略する事態に我々は直面しているし、彼らが暴力で領土を拡大し、全体を統制すれば、まがりなりにも平和は訪れる。パックスロマーナは200年も平和だったが、ローマ軍という暴力集団が何とか反乱を抑えていたからだ。

 それでは、国の上にある親分たる企業(産業界)がコケるとどうなるだろう。競技場で三人四脚が倒れるようなものだ。連鎖反応でたちまち不景気になり、リストラが始まって、その矛先は一番小さな単位である個人に向けられる。その個人は「無能」と判断された人間だ。無能という基準は、古来から人類が理由付けに利用してきた「優生思想」で明確に表現される。国にとって、労働力にならない者、迷惑をかける者、補助・支援をしなければならない者は「無能者」というカテゴリーに入れられる。つまり、「優生保護法」は、そうした無能者を排除する法律といっていいだろう。

(二)

 権威主義国家では、政府の上に企業があるという経済原則を逆転させ、企業の上に政府(独裁者)が鎮座していろいろ指図をし、自由競争を疎外するから景気も悪くなり、その体質を変えない限り、なかなか難しいことになる。現在、中国ではこの弊害が顕在化し、金持ちたちがどんどん海外に逃げ出している。日本でも、都会の高級マンションが彼らに現ナマで買われ、移住が始まっている。その結果、中国本国の貧窮化が加速し、政府は国民の不満を台湾強奪に向けるだろうと予測する専門家も増えている。恐ろしいことだが、近々に日本も戦時体制下に置かれるかもしれない。徴兵制への御覚悟はできていますか(ジジイで良かった😊)。

 反対に世界的なIT企業のように、企業があまりに発展し過ぎるとお高くとまり、受益者である国々の政府を鼻であしらうことになりかねない。いま世界中で国、企業、国民のベストバランスが崩れつつあることは確かだろう。巨大IT企業は、世界帝国を創りかねないほどの勢いだ。彼らの莫大な資金をもってすれば、世界中の議員や役人を金の力で手中に収めることは簡単だろう。恐ろしい世の中になってきたが、これもまた歴史の流れだ。

 歴史の流れといえば、ITの進化によって確実に無能な労働者が増えてくる。人間はITに洗脳されつつあり、仕事では人間に代わってITが進出し、社員はどんどんリストラされ、結局一握りの有能な人間(金持ち)と多数の無能な人間(貧乏人)に区分けされ、無能者たちは一握りの有能者の子分である政府の慈悲で生きていくことになる。僕と同じ無能者が増えるのは嬉しい限りだが、同時に古来から人心に存在する「優性思想」が幅を利かせてくるのは間違いない。優性思想は巷の会社と同じく、「慈悲の論理」とは裏腹の「排除の論理」で動いていく。

 千葉県では鹿の仲間のキョンが増えて駆除の対象となっている。全国で熊が出没し、駆除対象となりつつある。同じように世界中に無能者が増えれば、駆除の対象となる未来が想像できるかも知れない。キョンも熊も肉として食うことは可能だが、人間の場合はそれもままならず、使役動物として使う以外にないだろう。もっとも、SF映画『ソイレント・グリーン』(5月リバイバル上映)みたいに、老人たちが殺処分されて代替食品(ソイレント)に加工されれば話は別だ。

 しかし牛馬が車に駆逐されたように、ロボットにより人間の使役的役割も危なくなりつつある。もっとも、熊やキョンと人間の異なる点は一点だけ存在する。それは無能者にも「人権」は存在するということだ。人権は動物愛護のような慈悲とは異なり、物扱いされない権利だ。人権は、人間が人間の尊厳を持って生きていく権利だ。無能だ、有害だといって駆除されるものではない。たとえ人殺しであったとしても人権は主張でき、熊のように駆除されてはいけない。いまロシアやイスラエルがやっている殺戮行為は、死刑制度とも関わっていることだ。それらは「憎しみ」、「報復」という忌むべき名詞が動詞変換されたものなのだ。

 ……と僕がこんな主張をしたところで「人権」はイメージに過ぎず、絵に描いた餅であることは国連を見れば分かるだろう。世界の至る所で人権蹂躙が起こっていても、手をこまねいているのが現状だ。喧嘩が始まれば、薄っぺらな「人権」は軍靴で踏みにじられる。「勝者」の裏側に「敗者」があるように、「優性思想」の裏側に「人権思想」がある。前者(勝・敗)は「実利(功利)」で後者(優性・人権)は「論理」で機能する。人間の営みにおいて、常に「実利」は「論理」に優る。「実利」は人々の欲望で活性化し、「論理」は学者たちの脳内で空回りする。人間は飢えると店頭の饅頭を盗み、腕力で弱者から物をもぎ取る。つまり立派な論理も、生きるための実利には無力となる。

 実利主義は、個人的に「利益、効用が高ければ、そのアクションをチョイス」という考えで、ベンサムの主張する「功利主義」は、そのアクションで最大多数が恩恵を得れば最大幸福が得られるというものだ。この最大多数は全員ではなく、その裏には一握りの落ちこぼれた敗者が存在する。だから最大多数の幸福が目減りを始めると、その穴埋めとして敗者への援助が滞り始め、反対にそのアクションをフォローする論理「優生思想」が鎌首をもたげる。古来からある「働かざる者、食うべからず」といったスローガンの中に、働きたくても働けない連中まで入れられてしまうのだ。昨今、国民年金の開始年齢の引き上げ問題が取り沙汰されているが、老人は年金生活の夢を諦め、老骨に鞭打って職を探すが、企業からは敬遠されて職安の前をうろつくことになる。

(三)

 地球は所詮、弱肉強食というサバイバルな世界だ。そのとき「論理」は屁理屈として「実利」に利用される。例えば、「ウクライナに住むロシア人の人権を守るため」と言って、ウクライナに侵攻する。「ヒンズー教徒の人権を守れ」と言って、イスラム教徒の人権を蹂躙する。強者・多数の実利が論理武装し、弱者・少数の権利を蹴散らしていく。

 現在でも、地球の至る所が運動会のような世界だ。人々はエネルギッシュに金を稼ごう、楽な立場になろうと凌ぎを削っている。国が窮乏すればするほど、彼らのプライドは「2番であってはいけない」感性で満たされる。1番になるくらいのガッツがなければ、這い上がれないからだ。そして、みんなが1等になろうとスクラム組んで「幸福」のゴールへ走り出す。2等になれば、役得は大きく目減りする。そんな社会で鎌首をもたげるのが「優性思想」なのだ。そしてその鎌首がコブラであれば、恐ろしい毒を反吐のように撒き散らかすことになる。その結果、競技会にも参加できず、「無能」「劣等」と判断された人々が、上昇志向社会の「お荷物」や「無駄」として迫害を受けることになる。

 それが国単位で起こるから、勢力圏内における他民族・他宗教の浄化も行われる。そいつらは仲間でなく、スクラムを拒否する連中だ。みんな一丸となって、国家の上昇に寄与しなければ非国民だ。置いてきぼりをくらう障害者も足手まとい。ナチス政権化のアウシュヴィッツや精神病院がその典型例だろう。ユダヤ人はもちろん、多くの障害者が常勝軍団・上昇社会のお荷物として処分された。ユダヤ教徒によるパレスチナ人迫害も似たようなものだろう。インド政府のイスラム教徒迫害も同じだ。関東大震災における朝鮮人虐殺の原因は、日本人が彼らをスクラムを組める仲間だとは思っていなかったからだ。ユダヤ人もパレスチナ人も朝鮮人も、当然のこと障害者も、見下された立場、あるいは異物だったからだ。人気企業の入社試験で、書類選考のときに出身大学を見ただけで異物として落とすのと同じ、ありふれた社会的スタンスなのだ。残念ながら、これに立ち向かえるのは「人間愛」という、身を切る覚悟を迫るお題目しかない。

 旧優生保護法も、日本全体がスクラム組んで上昇しようと目論んていた時代の悪法だ。この法律は「優生上の見地から、不良な子孫の出生を防止する」目的でつくられた。1948~1996年にかけて、この悪法の下で障害を持つ人々を中心に、1万6500件もの〝強制的〟な不妊手術が行われた。訴訟を起こしてもなかなか勝てないのは、「人権」は理性で「差別」は感情であるからだ。裁判官を含め、あらゆる人々は「良好」・「不良」、「有能」・「無能」の二者択一で回る社会で生まれ育ったため、その価値判断が身体に染み付き、中学で習った「人権」という言葉の意味が理解できない。人間に対する「不良」という言葉自体、人権を無視した社会言語であり、裁判官は人間生産現場の歩留まり向上を意識する工場長と同じ感性で判断していることになる。当然、義務教育現場でも同じだろう。みんなみんな優良国民を創り上げようと努力しているのだ。優良国民は、会社を盛り上げ、国を盛り上げ、世界に対抗する良い子の集団だ。

 こんな悪法は世界中に存在し、アメリカのヴァージニア州では、黒人や白黒混血児を中心に、1924~71年にかけて8300人が強制断種させられている。イギリスでも、ナチの迫害から逃れ移民となって流入したユダヤ人の一括断種計画が浮上したが、ドイツのポーランド侵攻でイギリスがドイツに宣戦布告したために、たち切れとなった。しかし、アメリカとイギリスのケースは、少し異なっている。

 もともと優性思想はダーウィニズムから派生したもので、「子孫を残すに相応しい遺伝形質の者がより子孫を残すように奨励し、相応しくない遺伝形質の者が子孫を残すことを防ぐ」ことを目的とした。白人天下であったアメリカの例は、この目的に合致するだろう。しかしイギリスの場合は、ジョンブルから見れば格下のユダヤ民族なら、ある意味では合致するだろうが、大量の移民流入という観点からは、食い物の奪い合いという切実な問題が浮上していた。この典型的な例がインドと中国だ。

 インドは急激な人口増加の対策として、1952年に世界で初めて国家プログラムに断種を取り入れた。1972年、73年には3百万人が断種されたという。75年には国内の動乱に対処して非常事態宣言が出され、「強制的説得」というシステムの下に、暴力的な断種も行われるようになり、76・77年の総数は830万人まで上り、82・83年は新たに400万人が断種された(『優生思想の歴史』:スティーブン・トロンブレイ)。 

 中国では、1953年の国勢調査で人口が5億8千万を超え、6億に押さえるために、毛沢東の指示で産児制限局が設立され、断種や中絶などの産児制限が取られてきた。79年には有名な一人っ子政策が導入され、将来の働き手を得るため、女児を出産すると直ぐに殺害するという悲惨な事件が頻発し、生まれた女児の20%が殺されているなどという憶測も飛び交った。この悪法は2015年末に廃止されたが、おかげでいまの中国はその後遺症で、深刻な若者不足が顕在化している。

 優生思想の根源は、一人一人の心の中に潜む自己中心的な差別感情だ。誰でも、自分にとって心地よい環境を望んでいる。だから心を乱す反りの合わない友達は敬遠するだろう。反りの合う仲間が数人集まったとき、その友達は心地悪い異質な人間としてグループから排除される。このグループが一つの目的に向かって上昇する役割を担った場合、その友達は団結を阻害する不必要な部品としても排除されるだろう。このグループが、国という大きな集団になったとき、そしてその国が他国との競争に勝たなければならないと思ったとき、政府は国民の向上心を養うために、彼らが選ばれし民であることを強調する。そのとき、仲間外れの友達は、国にとって不要な連中、保護を強いられる寄生的な人々(精神障害、発達障害、遺伝的障害、怠け者等々)、少数民族・異教徒などに拡大し、多数国民の差別感情を利用して「優生思想」を醸成し、「優生保護法」という悪法をつくって論理武装し、断種や隔離などの実利的行動を開始する。

 いまイスラエルでは、選ばれし民であるイスラエル人の人権を守るため、不要なパレスチナ人の人権を無視した実利的な軍事作戦を進めている。この悲劇的惨状を前にして、米国内のユダヤ人票を当てにしているバイデン大統領は、眉間に皺を寄せて瞼を閉じ、薄目を開けてその展開を眺めているだけの状態だ。どうやら彼の頭の中では、正義の女神が呆れて去った後に置き忘れた天秤だけが残っていて、片方にはユダヤ人票、片方にはパレスチナ市民の命が乗せられ、ゆらゆらと揺れ続けているのに違いない。




ショートショート
陽はまた昇る

 僕は孤独な会社員だ。時差通勤で、毎朝8時半の始発電車に乗っている。この時間帯は通勤客も少なくなり、席に座って会社の最寄り駅まで行くことができた。家から駅まではバスで5分ほどだが、僕はあえて30分ほど歩いて駅に向かった。もちろん、帰りも歩きだ。定期代を節約したわけではない。途中に小さな森があって、小鳥たちの愛らしい歌を楽しむことができたからだ。

 朝の小鳥たちはもう働き始めていて、いつものように陽が昇ったことを感謝しながら、雛に見送られて巣から飛び立つと、小さな翼を羽ばたかせ、「待っててね!」と陽気に歌いながら、餌を求めて直線的に飛び去っていく。そうした鳥たちの歌声が様々な音色の線となってマトリックスのように錯綜し、僕は昨日仕上げられなかった企画書のチャートを思い出して苦笑いしたりする。けれど、その音たちがあまりに生き生きとしているので、僕はそのノリで一気に仕上げようと張り切ることができたのだ。

 帰宅は帰宅で、日暮れが早い季節には森は死んだようにひっそりとしていたが、常緑樹の葉陰に、鳥目の彼らが天敵から気付かれないように、ひっそり佇む気配を感じることができた。僕は太い木の幹に手を添えて樹上を見上げ、いったい一本の木に何羽ぐらい隠れているのかと想像して微笑んだ。初夏になって夜が短くなるにつれ、偶には日暮れ時に帰ることができるようになった。そんなとき、森は小学校の休み時間のように、小鳥たちの歌声が破裂していた。それはさえずりの百花繚乱だった。一人暮らしの僕は、幼い頃の賑やかだった家庭を思い出し、ほんの少しホロリとした。

 次第に鳥たちの歌が、僕が生きていく上でのたった一つのエナジーだと思えるようになった。鳥たちは、短い命を思い切り楽しんでいる。降車する駅では、哀調を帯びた駅メロが流れていた。それを聞くと、いつも憂鬱な気分になった。それには鳥の歌のような、生きる喜びが感じられない。僕は上司からパワハラを受けていたのだ。それでも会社を辞めなかったのは、叱られる自分の力も分かっていたからだ。そして何よりも、ある時突然僕に訪れた怠惰という魔物を振り払いたいと願ったからだ。僕は惰性で生きていた。そして、それが僕の人生を破滅させると感じていた。この藁をも掴むような茫漠な状態から逃れるには、何か固い筏のようなパワフルな存在が必要だった。その筏は上司だった。彼も急流の上で虚勢を張って流れていた。僕が手足をバタつかせて彼に追い付き、その上に乗っかったとき、恐らく上司のパワハラは納まるのだろうと勝手に想像した。そして僕は、居心地の悪い会社に居続けた。

 けれど同時にそれは、毎日が神経をすり減らす出来事だった。上司はどんなことにも注文を付け、罵った。客先から戻ったある時、僕の机の上がカオスになっていた。上司が何かの書類を探すため、勝手に荒らしてそのまま放置したからだ。けれど僕は何も言わずに黙々と片し始めた。惰性で生きている僕には怒りすら、ぶよぶよした茫漠のオブラートに包まれていたのだ。

 僕は始発電車で、前日の疲れを尾に引いて、居眠りをしていた。しかしある時、いつも途中の駅から一人の若い女性が乗って、向かいの席に座ることに気が付いた。彼女は毎日、趣味の良い違った服装をしていた。それは、僕のようなモードから縁遠い男にも、一目で高額と分かるようなものだった。しかしそれはどれも派手なものではなく、巷ではなかなかお目に掛かれない気品のあるコーディネートだった。僕は彼女が、お金持ちの令嬢であることを確信した。そして僕が彼女をチラチラと見ることに対応して、彼女も僕をチラチラと見ていることに気が付いた。「そうだ、彼女は僕を意識している」と僕は心の中で叫んだ。

 そして再びあの恐ろしい悲しみの闇が、僕の心の中で口を開いた。その闇は遠い宇宙に繋がっている、底のない穴だった。それは落ちると死んでしまう冷え冷えとしたクレパスだ。僕があの時から命がけで戦いながら、力づくに埋めようとしてきたけれど、結局無駄に終わり、最近ではそいつに遭遇すると180度方向転換して逃げることにしていた。そのまま前進することは、僕の破滅を意味していたからだ。

 僕は始発電車を避けるようになり、その前の混み合った電車に乗り込んだ。しかし、時の経過が僕を癒すことはなく、ずっと彼女を忘れることはできなかった。僕は脳裏に彼女の面影を浮かばせながら、小鳥たちの森を通ることになった。すると小鳥たちの歌も、短調のように悲しく響いてくるのだ。しかし、しばらくすると、小鳥たちのバックコーラスに包まれ、彼女のことを子供の頃に病気で失った母親のように懐かしく思い出されるようになり、僕は思わずほくそ笑んだ。きっとじきに、彼女の呪縛から解き放される時がくるだろう。

 恐らく彼女は、少しずつ過去の人となりつつあった。母親との楽しい日々も短かったが、彼女との出会いはそれよりも短い一時だった。けれどそれは至福の一時で、惰性の人生を楽しませてくれた。僕は久しぶりに、胸をときめかせたからだ。さあ、彼女も僕の思い出箱の中に入れてやろう。すかすかな暗箱の中で、母のお人形さんが、あの優しい眼差しで、嫁にし損ねた彼女の人形を迎え入れてくれるに違いない。

 始発電車を避けて一年後、僕は残業で夜10時過ぎの下り電車に乗り込んだ。僕は座席に座れず、ドア側に立っていたが、いつものように仕事疲れの頭を空にして、ボーッとしながら薄目を開けていた。すると細くした瞼の隙間から、じっと僕を見つめる誰かの視線を感じて思わず目を見開くと、反対のドア側に彼女が佇んていて、大きな瞳で僕をジッと見つめていたのだ。まるで昔の友達に偶然出くわしたように、四つの瞳が直線的に交わり、二つの口は驚きでポカンと開いていた。彼女は明らかに僕を欲していた。その瞳は驚きから、祈るような輝きに変化した。それは二人にとってラストチャンスだった。しかし彼女の強烈な視線は、メドゥーサのように僕の全身を凍らせた。僕の体は、恐ろしさのあまり小刻みに震え、停車した途中駅でドアが開くと、すかさずプラットホームに飛び出した。

 僕は駅の繁華街に出て居酒屋を見つけ、泣きながら夜中の二時まで酒を飲んだ。女将さんが心配して、「坊やどうしたの?」と話しかけてきた。僕は「女に振られた」と答え、あとは黙って酒を飲み続けた。ぐてんぐてんに酔っ払い、タクシーで家に帰った。明くる日、僕は会社を無断欠勤した。二日酔いのヅキヅキする頭で、会社を辞めてオートバイでどこか遠くの旅に出ようと思い立った。

「ああ、ピュアな朝日を体中に浴びたい……」
 僕は子供の頃からオートバイが好きだった。高校生の頃、免許取り立てで交通事故を起こし、不能者になってしまったけれど……。

(了)



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