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ozzy
2020年7月31日 07:30
三階まで階段を上がり、廊下を進む。時折開け放した部屋を覗くと窓の外には広大な海が広がっていた。患者にとってそれがどう映るのか定かではないが、決して悪くないような気がする。きっと彼女の母親もこの海を見てなにか思う事があるのではないだろうか。横を歩く成美は依然として顔を紅潮させている。まるでその緊張が心臓から全身に駆け巡り、耳の先まで赤くしているようである。 彼女がある部屋の前で足を止めた。その部
2020年8月28日 07:30
取材は我が事務所で行われることとなった。さすがに取材を受けるとなっては部屋が雑然としている訳にも行かないと思い、私はいつもより早く出勤し掃除を始め、二時間ほどして高峰が出勤する頃には見違えるほどになっていた。高峰は事務所に入ると部屋の中を見渡し、目を丸くして表情を明るくした。「すごいねえ。やはり普段から整理整頓はしておかなければいけないな」「そうですよ。先生の欠点は仕事に夢中になりすぎること
2020年8月29日 07:30
「弁護士は依頼人の為に職務を誠実に全うしなければならないのはもちろんご存知ですよね?おたくの価値観だけで困っている人の依頼を断るって言うのはどうなんですかねえ」 高峰に笑顔が消えた。私も急な展開に頬が引き攣っていくのを感じる。記者が発した「依頼を断る」という言葉は明らかに会話の中から得た情報では無かった。 そこで私は察した。これは好意的な取材ではない。「色々調べさせてもらったけどね、おたく
2020年8月31日 07:40
もしかしたら私は初めからどこかで高峰を疑っていたのかもしれない。そもそも私のような猥雑で卑小な人生を送ってきた人間が高峰のような清廉潔白で使命感溢れる人格を容易に受け入れることができるのだろうか。そのような卑屈な考察も私の荒んだ人格を一滴でも掬い取ってくれるような人間は見たことが無かったからくるものだった。 高峰に不審な影が見つからなかった事で私は安堵の反面、記者の言葉を忘れる事が出来なかっ
2020年9月1日 07:30
夜になりようやく静かになった事務所で高峰はたまっている案件にとりかかっていた。私は彼のデスクに歩み寄った。「高峰さん」 それ以上、言葉が出なかった。高峰を疑った自分の愚かさ、浅はかさを呪った。彼は私を察し、再び力ないぼやけた笑顔を浮かべた。「大丈夫だ。人の噂も七十五日って言うだろ。君は気にせずにいたらいいんだ」 だが、高峰が抗弁しないのをいい事に記事は日に日にエスカレートしていっ
2020年9月2日 07:40
「黙ってちゃわからへんねん。やめて下さい、お願いします、やろ」 後頭部に蒲田の足が置かれ、そして押し付けられる。その拍子に首が曲がり、頬に床の無機質な固さが痛みに変わる。蒲田の後ろに居た彼の秘書と目が合ったが、彼女はすぐに反らした。「やめて下さい。お願いします」 言葉が微動している。まるで犬であった。いや、まだ犬のほうが尊厳を守られているであろう。まともな人間ならばこの場合相手を殴りつ
2020年9月3日 07:30
病院に運ばれ、高峰の死亡が確認された。警察の現場検証も行われ、自殺と断定された。 しかし、私の見解は違った。 これは紛れも無い殺人である。 巧妙に仕掛けられた罠に嵌められ、じわじわと追い詰められた末、彼は自らの命を絶った。これが殺人と言わずして何なのか。 見当違いとは分かっていた。しかし私は気持ちを抑えきれず、警察に猛抗議した。年配の刑事は私の話を全て聞き終えると、深いため息をつい
2020年9月4日 07:30
「この国で一日に何人の人間が消されていると思う?」 唐突な質問に私は虚を突かれ二の句が継げない。「今あんたの思った何十倍もいるんだよ。ただ公表されていないだけでな」 男はまるでその目で見てきたように言って煙草に火をつける。その様子は慣れていないのか妙にたどたどしい。「世界に存在する法治国家なんてもんは名ばかりだ。その看板掲げときゃ国民はおとなしくなるからな。だが世の中を動かしているのは金
2020年9月5日 07:30
それでも私は復讐の為に様々な手段を試みた。しかし到底私などのような弱者に出来る事は限られており、全てなしのつぶてに終わった。 男の言うとおり、どうやら蒲田はその大きさすらわからない権力を背景に私の手の届かない場所にいるようだった。マスコミはおろか、警察及び行政機関までもが私の告発を受け入れようとしない。八方を塞がれた私は理性を失い、錯乱した。✴︎ その日、蒲田が自ら経営する六本木のクラ
2020年9月7日 07:30
その刹那、私の手に激痛が走った。ナイフが地に落ち、朝の静寂に亀裂を入れた。ここぞとばかりにカラスがぎゃあぎゃあと鳴く。再び誰かが悲鳴を上げた。 そこで澱んでいた聴覚が鮮明となり、気が付けば私は腕を捻り上げられていた。蒲田はボディーガードに体を引かれたせいで地べたにへたり込んでいる。「お前、何者だ」 私の腕をさらに締め上げると、大男は詰問してくる。蒲田は目を細めて私を確認すると、顔色を取
2020年9月8日 07:30
「あの人が命を呈して守ったあなたが死んでしまったら、意味が無いでしょう」 そう呟くと彼女はうつむき、そして大粒の涙をはらはらとこぼした。 悔しいはずだった。私の命を守ったとしたら、高峰は犬死に同然である。私のような人間に関わったばかりに人生を、そして家族は高峰を失った。 理不尽すぎる。しかしそれが現実だった。 人間は自身で答えの出ない現象や体験をあたかも運命という二文字を用いて答えが出たよ
2020年9月9日 07:30
「ほう」 目の前の男は私の話を聞き終えると、頬杖をついてうす笑みを浮かべた。「なかなか面白いじゃねえか」 相変わらずライターをいじる甲高い音を立てている。私は口を閉ざしていた。「結局、泣き寝入りってわけか。世間は冷たいもんだな。まあ、でも今はこうしてその経験も金になっている。分からねえもんだ」 ようやく耳障りな音を止め、男は煙草に火をつけた。いつのまにか灰皿は吸殻で一杯になっている。
2020年9月10日 07:30
「ねえ、にがうりさん」 後部で聞き覚えのある声が聞こえてきた。頬が痙攣する。私は恐る恐る振り返った。「相変わらずつまらない商売してるね」 女は詠嘆口調で言った。後ろのボックス席で頬杖をついている。「また盗み聞きですか。悪趣味ですね」 女の存在に腹が立ったが感情を抑え、あえて丁寧な口調で答えた。向こうのペースに乗る事はない。「もうそろそろネタ切れなんじゃない?それともこれから仕入れるわ
2020年9月11日 07:30
「適当に答えないでよ。キャバ嬢だよ、キャバ嬢」女は私の肩をはたきながらケラケラと軽薄な笑い声をあげた。 キャバクラ嬢といえばドレスを身にまとい綺麗にメイクをしている浮世離れした印象なのだが、目の前の女はジャージ姿である。首から上は確かにメイクが施されているが、接客業とはほど遠い気がする。そういう意味では浮世離れしているのか。「こういう仕事しているといろんな人間と話す機会があるんだけど」 私