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にがうりの人 #16 (母と海風)
三階まで階段を上がり、廊下を進む。時折開け放した部屋を覗くと窓の外には広大な海が広がっていた。患者にとってそれがどう映るのか定かではないが、決して悪くないような気がする。きっと彼女の母親もこの海を見てなにか思う事があるのではないだろうか。横を歩く成美は依然として顔を紅潮させている。まるでその緊張が心臓から全身に駆け巡り、耳の先まで赤くしているようである。
彼女がある部屋の前で足を止めた。その部屋には六つ程ベッドが置かれている。手前のベッドには年配の男性が横になって読書していた。そして一番窓際のベッドには初老と思しき女性が窓の外を眺めていた。その他は空床のようだった。
「ここで待っていて」
入り口に私を待たせると彼女はゆっくりと窓際のベッドへ近づいていった。私は遠目で二人が会話を交わすのを見た。声は聞こえないものの、その様子はよそよそしくどこか違和感があった。それが私の知らない彼女達の距離感であり、今すぐに埋める事など出来ない気がした。
彼女達の後ろに広がる海がやけにまぶしく輝いていた。成美はその中で振り返ると私を見て力なく笑い、そしてふらふらと私の元へ歩いてくる。ベッドの上の女性は不思議そうに私達を見ていた。成美は私の目の前までくると、ふっと俯いた。
「どうしたの?」
彼女は答えない。それどころか、彼女の肩は震えていた。私はただ事ではないと思い彼女を押しのけて窓際のベッドへ行き、素性を明かして頭を下げた。だが、私達を希望の頂から突き落とす思いもよらない現実がそこには待っていた。
「あなた達はいったいどこのどなた?」
入院着を着用し、白髪まじりの髪をひっつめ、上品そうな佇まいのその女性は私を綺麗な瞳でまっすぐに見つめた。私は一瞬言葉に詰まる。
「僕は成美さんの」
「だから、その成美さんとはどなたなの?」
私の言葉を遮り女性はうんざりするように語気を荒げた。
私はベッドの名前を確認する。そこには加藤敏子と書かれていた。それと同時に袖を引っ張られる。振り返ると成美が青ざめた表情で私を見つめていた。
✴︎
「認知症なんだって」
病院の庭に置かれた椅子に腰掛けて成美が呟いた言葉の意味を私は理解できなかった。
「もう私の事はわからないみたい」
私は思わず口を開けてしまい、手を当てる。成美は精一杯の声を出して、そしてハンカチを目頭にあてた。私には静かに泣く彼女の手を握る事しか出来ない。私にはかける言葉すら見つからない。
絆はそうやすやすと断ち切れるものでは無い事も分かっている。
だが、この現実はどうだ。
切望していた肉親は自分を忘れ置き去りにし、再びどこか新しい世界に行ってしまったのではないか。
防砂林の間から見える海を呆然と眺める成美をまともに見る事ができなかった。
彼女は今、何を思うのか。
私に分かる訳が無い。
登り詰めた山頂、後一歩で探し求めていた一輪の花にたどり着くというのに、崖に突き落とされたようなものだ。
私に分かる訳が無い。分かってたまるか。
続く
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