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にがうりの人 #48 (暴虐か懺悔か)

 その刹那、私の手に激痛が走った。ナイフが地に落ち、朝の静寂に亀裂を入れた。ここぞとばかりにカラスがぎゃあぎゃあと鳴く。再び誰かが悲鳴を上げた。
 そこで澱んでいた聴覚が鮮明となり、気が付けば私は腕を捻り上げられていた。蒲田はボディーガードに体を引かれたせいで地べたにへたり込んでいる。

「お前、何者だ」

 私の腕をさらに締め上げると、大男は詰問してくる。蒲田は目を細めて私を確認すると、顔色を取り戻し立ち上がった。
「またお前かい。ええ加減にせいや」
 蒲田は鼻孔を膨らませてふてぶてしく言うと、私の腹を殴った。
「復讐のつもりなんか?ああ?」
 私はいつのまにか大男に羽交い絞めにされ、なす術もなくただただ蒲田の拳を受けていた。
「おら、何とか言ったらどうや?」
 朦朧とする意識の中で私は思った。

 殺せ。私を殺せ。

 ようやく掴んだ希望や未来はいとも簡単に踏み潰され、抱えてきた正義は完膚なきまでに砕かれた。そして命よりも大切な人までを失う事になったのだ。これ以上、私にはすべきことなど何も無い。
 しかし蒲田は突然、殴る手を止めた。
「本来なら、お前もあの弁護士先生みたいに生き地獄を味あわせてやってもええんやが、何でそれをせんかったか分かるか?」
 肩で息をしながら、蒲田は私の血で汚れた拳をハンカチで拭った。

「お前には奪うものすらないやん。そんな人間、殺す価値すらないねん。そやけどな、これ以上俺にちょっかいだしてみい。次は本気で殺すで」

 蒲田があごをしゃくると、大男は私への羽交い絞めを解いた。私は力が入らない手足を投げ出してその場に倒れ込む。私は腫れあがった瞼をこじ開け、見上げるとそこには朝日を背に受け、真っ黒な影になった蒲田が私を見下ろし、悪意に満ちた笑い声を上げている。そして屈むと顔を私に近づけてきた。

「そのクソみたいな運命に救われたと思えや」

 そうして私の前から影が消え、目の前が白くなった。そして視界が狭くなり、鮮やかな赤が広がり、再び真っ暗になった。もう悪の笑い声だけしか聞こえない。

✴︎

「大丈夫ですか?しっかりして下さい」

 私はその声で意識を取り戻し、目を開けた。滲んだ視界に移ったのは見覚えのある女性だった。
 彼女は高峰の妻、聡子だった。彼女に介抱され、私はようやく我に返った。同時に体中に痛みが走る。
「あなた、蒲田を殺してあなた自身も命を絶つおつもりだったのでしょう?」
 痛みに堪えながら、私は言葉に詰まる。図星だった。
「そんな無意味な事はやめて下さい」
 彼女は細い肩を震わせていた。前よりも幾分かやせたように思えた。彼女は私を心配し、尾行していたらしい。

続く

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