母について思う2


タイムリーに今日読んだ本が乳がんだった人が書いた本だったから、いろいろ思い出したついでに母の病気について。

母は乳がんから脳、骨、リンパ、肺へ転移で、最終的なトドメになったのはおそらく肺の腫瘍。
わたしが小学5年生のときになって、19歳で亡くなったので幼かったなりに全過程を一番近くで見た。
ものすごく恐ろしかった。わたしの不安障害の中で一番強い病気への不安はここから来てる部分も大きいかもしれない。

初めて知らされた時はママが死んじゃうんだってわんわん泣いただけだったけど、ある日学校から帰ってきてリビングのドアを開けたら丸坊主になった母が向こうを向いて座っていて、こちらを振り返って顔を合わせた時の映像を今でも鮮明に覚えていて、そこで嘘じゃないんだ、もう戻らないんだって強く自覚したような気持ちになったような気がする。

幸い母の周りにはお医者さんの友人が沢山いたので、みんながあらゆる手を尽くして繋いでくれて色んな治療を受けることができた。
わたしもそのとき小学校で仲良しだった友達が帰国子女だったので、オープンなおうちでしょっちゅうお泊まりに行かせてくれて、寂しくないようにしてくれていた。今思うと、本当にありがたい。
もともと健康に関心があったので、母の薬や治療についてよく話を聞いていつもどんな治療を受けてどういう状況なのかを一緒に把握していた。

わたしの心境としては、大好きな母がいつか死んでしまう日がくるんだということ、そしてそれが遠くないということがとてつもなく怖くて、怖くて怖くて、仕方がなかった。
一個前にも書いた通り、母はよく病気をわたしのせいにしたし、周りも気難しい娘のせいでとわたしを責めたから、余計にわたしは苦しかった。

母は傲慢なお嬢様だったけど、病気になってからは色々変わった。明るくてかわいい癌患者だったのは、娘から見てもわかる。
たぶんわたしが想像できないほど怖かっただろうに。父は病気に全く理解がなく、自分が悲劇のヒロインのように振る舞い、何かあればいつも誰のお金で生きていられるんだと母を怒鳴った。
わたしはそのときの印象ばかりが強かったので、父のことをずっと最低だとしか思えずに生きてきたけど、最近になってそれも、父の気持ちを想像すると父なりに必死で働くしかなかったんだと思って全員が仕方なかったのかもしれないと少し理解?することができた。それでも怒鳴るのは最低だし、母が亡くなる直前までわたしは離婚の手続きを手伝おうと試み続けたけど。

あるあるなのかわからないけど、病棟ではスピリチュアルが流行っていて(藁にもすがる思いなのかな?)、母も例に漏れずハマった。一通り引き寄せやらヒーリングやら、いろいろ本を読み漁って、母なりにいろいろ気づきがあって改心したらしく、ある日突然謝られたことがある。
今までごめんねと涙ながらに。
きっと母の中で何か思うところがあったのだろうが、わたしとしてはここまで辛い思いをさせられてきて、当然ごめんと謝ってそのストーリーを自己完結されてしまってたまったもんじゃない。
母的には娘との関係を浄化できた⭐︎だったのだろうが、わたしはその後もずっとずっとあなたから植え付けられたものに苦しみ続けている。
そんなこと言いながらも、わたしはいつも母を誰よりも大好きだったので、何をされたって母にべったりでただ母に好いて欲しかった。なんて健気な。

わたしが高校を卒業する頃、受験とか過食とかいろんなストレスが我慢できなくなり、朝に母と大喧嘩したことがあった。母の誕生日だった。
イライラして語彙がなかったわたしは、当時最大限の言ってはいけない言葉、シネを何度も母に吐き捨てた。死んじゃったらどうしようと何年も思い過ぎて溜まりに溜まって、この言葉を口にしてやりたいっていう衝動に駆られたんだと思う。
その日の自分も今も許せない。目を見て心を込めて言ってしまった。
挙げ句の果てに、捨て台詞のように最期の誕生日おめでとうと言って、どうせどうでもいいような友達との約束のために出かけて行った。本当になってしまった。
この日とは別に、わたしはガリガリに痩せ細った母の脚を蹴飛ばしてしまった日がある。それも何かで喧嘩をしたとき。
うちは昔から喧嘩をすると全員手が出る。わたしも殴られて蹴られて散々暴力を振るわれてきた、というのは言い訳にならないけど、、
グキッとなる感触がわたしの足の裏に伝わって、細すぎる母は脚をいためてしまった。杖で一生懸命歩いていたのに、もっと歩きにくくしてしまった。わたしが生きてきた中でこの2つが一番辛い記憶。
悔やんでも悔やみきれない。辛くて怖くて、どんなに考えても、泣いても、何をしても自分がしたことを許せなくて、怖くて怖くてたまらない。人生でいちばん取り返しのつかないことをした最低の瞬間。忘れたいのに張り付いてとれない。
もちろん死んでしまったのも最期は車椅子生活だったのも、わたしのせいじゃないことはわかってる、でも。

その後わたしは遠方の大学に入学するために家を離れた。その頃には脳の腫瘍もだいぶ悪くなってきていて、会話がところどころ変になっていた。
準備が間に合わず、部屋がぐちゃぐちゃのまま出て行ってしまったわたしに、部屋がぐちゃぐちゃなのも泣けて泣けて、と母からきたメールが忘れられない。しんどい中片付けてくれてる姿を思うと胸が痛くて涙が止まらなかった。

ゴールデンウィークに初めての帰省をした頃、母が抗がん剤をやめた。1ヶ月会わなかっただけなのに、再開した瞬間もう長くないと悟った。
ゴールデンウィークは毎年地元のお祭りがあって、地元に友達がいないわたしは母と一緒にチョコバナナを買うのだけど、もう一緒に行くことができなくなってしまった母のために1人でチョコバナナを買いに行った。
小さい頃から変わらない人混みとお祭りのがやがやの中を1人で小走りにすり抜けてチョコバナナを買いに行きながら、わたしは大学をやめてもいいから最後は母に添い遂げようと決めた。

5月末になり抗がん剤をやめた母がホスピスに入るタイミングでわたしは休学して実家に帰ってきた。
山の上の眺めが良くて静かな病院で、毎日母と2人で朝から夕食まで過ごした。わたしは幸せだった。
毎日大した話をするわけでもないけど、母とずっと一緒にいられて、初めて本当に独り占めだった。こんなときに独り占めできたってもう遅いのに、それでもわたしは幸せだった。
20時に病院が閉められるので、それくらいに毎晩出て行くんだけど、また明日って言ってドアを閉めて外へ向かうのに、もしかして今日が最後かもしれないと思って、何度も部屋に戻っておやすみと言った。でもボケてしまって楽しそうな母にもうすぐ死ぬなんて言えないから、ふざけてるフリをして、笑って何度も何度も部屋に戻った。
なんで帰ってくるのって母は笑うんだけど、わたしはただただふざけて挨拶して、ドアを閉めて外に出てから毎晩1人で泣きながら帰った。
たぶん看護師さんたちもそれを知って何も言わないでいてくれた。

妹はその頃受験生で、ホスピスには全く来なかった。わたしだけが毎日会いに行くので、母の記憶にはわたしと、母のもともとの家族しか残らなくなった。
わたしは勝ったと思った。歪んでいるけど、やっと欲しかったものが手に入った。
どんなに頑張っても、どんなに母の期待に応えても、可愛がられるのは妹ばかり、妹は生きてるだけで可愛い、妹の方が好きだと言われ続け、それでも母に好かれたかったわたしは、最後の最後に母の一番を手に入れた。わたしは満足だった。やり切った。そうとしか思えなかった。

抗がん剤はやっぱりすごくて、投薬をやめてから日に日に体が悪くなっていくのを目の当たりにした。おもしろいくらいに顕著だった。
酸素ボンベもモルヒネも、日毎に足りなくなっていき、ある日突然様子がおかしくなった。
そろそろですと言われて家族で病院に泊まることになり、わたしが母の横で簡易ベッドで眠った。
夜中に目を覚まして母が骨が痛い痛いと辛そうにするので看護師さんを呼んだ。
モルヒネを投与するときにこれで最後になるかもしれませんがいいんですね?と言われて、わたしひとりに聞かれてもどうしようもないけど目の前の母はとにかく苦しんでいるしどうしていいかわからず、はい、としか言えなかった。
すると母は、昔のハッキリした母の口調で、ママどうなるんだろう、とわたしに不安そうに聞いた。これがずっと本当は不安だった母の姿なんだとわかった。大丈夫だよ、大丈夫、、としか言えずそのまま眠った母は、翌日亡くなった。

ものすごく悲しいのと同時に、10年近く続いた母が死ぬかもしれないという恐怖から逃げられない生活から解放されて少しほっとしたような気持ちもあって、自分の冷たさが嫌になった。
でも家族もみんな、同じようだった。一緒にいたいけどこれ以上は全員が辛かったと思う。何もかも。

人が死ぬと、当人もその周りも美化される。
明るく美しく癌と闘った母、精一杯支えて遺された娘たちを1人で世話する父、健気に母に尽くしたわたし、妹は知らんが。
でもそんな綺麗なもんじゃない。死んだら消える因果なんてないと思うし、辛い思いをしたから善人ってわけでもない。だからわたしは母親の話は、できるだけ避けてきた。家族とも他人とも。
でもきっと、どこかで何かに共感してくれる人がいると思ってここにいろいろ書いてる。

最低な娘だけど、わたしは精一杯、最後まで母に忠誠を尽くした。後悔ってあるけど、でもそのときの精一杯がそれだったんだって思うと、じゃあ仕方ないかもねって思うようにしてる。

お風呂で書いてたら長風呂になってのぼせちゃった。はやく寝よ。

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