【短編】『タイムロス/ロスタイム』(前編)
タイムロス/ロスタイム(前編)
私はいつものように、朝7時にスマホのアラームが鳴り響く前に設定を切り、昨夜水を注いでおいた給湯ポッドのスイッチを押してトイレへと急いだ。トイレを済ませてから手と顔を洗い台所に戻ると、すでに水は沸騰しており、お椀に味噌汁のもとを入れてお湯を注ぐ。たちまち湯気が立ち、私の顔が味噌の香りに包み込まれる。炊飯器から余ったご飯を茶碗によそい、ふりかけをかける。そして、ダイニングテーブルに食器を並べ急いでいただく。その間、今日の天気と株価をスマホでチェックし、食べ終わると食器を台所まで持っていき、流し台にそっと置く。起床後食事を終えるまでの所要時間、約10分。
すぐにいつも出社用に用意している決まった私服に着替え、洗面台へと向かう。その間約1分。歯を磨いてから、メイクを始める。メイクはお気に入りのファンデーション、アイシャドウ、リップは使わず、間に合わせの物を使う。その間、約10分。冷蔵庫から水筒と弁当を取り出し、出勤用バッグに入れる。これは特に時間要さず。ようやく出発の準備が整ったので、残りの時間でコーヒーを入れて、出発の時刻の7時半までゆったりと時間を潰して過ごす。私はこのルーティンを出勤する日は毎日欠かさず行い、一日たりとも時間に遅れをとったことがない。そのため、必ず残りの時間でコーヒーを飲む時間ができ、優雅な朝というものを満喫できている。しかし、突如としてその時間管理を自分の手には負えない状況に陥ってしまったのだ。
ある日、目を覚ましスマホのアラームの設定を切ると、なんだかその日はいつもと違った空気が部屋に漂っていた。しかし、一見してみても特におかしな様子はなく、気のせいかとすぐに朝の支度に取り掛かった。そして、メイクまで済ましてバッグを用意すると、すでに時刻は7時半なのだ。私はもう一度アナログ時計の数字を見たが、依然として7時半と表示されていた。時間に誰よりも厳しい自分が10分以上も時間をロスするはずがないと思ったが、何度時間を見ても変わらなかった。バスの中で、再び朝の出来事を振り返るも、どこにも時間をロスする余地はなかったと再確認し、何かがおかしいと思って仕方がなかった。そして、ふとあることを思い出した。朝目覚めたと同時に、何かいつもと違った空気が部屋を漂っていたということだった。私は急に違和感を覚え怖くなった。もしかすると自分の脳に何か問題があって、一定期間あるいは部分的に記憶を忘れてしまう解離性健忘を患ってしまった可能性もなくはないと危機感を募らせた。
すぐに脳神経外科を予約し、診察を受けに行った。先生からは、最近どこかに頭をぶつけたかだったり、精神的に大きなショックを受けたことがあったかなどを質問されたが、特に思い当たる節はなかった。もはやその出来事さえも忘れてしまったかもしれないと先生に相談したが、心配いらないとのことだった。結果、脳に異常はなく、認知機能も正常だった。まさかあの日は、私が10分間も何もせずにポカンとしていたとでも言いたいのか?と聞き返したかったが、先生はあくまで診察をしてくれる存在であったことを思い出した。
病院を出る頃には、自分が自分でないような気がした。医者に頼れないとするならば、もう自力であの10分間に何をしていたか、何が起きたかを探るしかないと思い、あらゆる方法を考えた。しかし、それもすでに起きてしまったことへの調査ではなく、むしろ今後仮に同じことが起きた時ための対応策でしかなかった。私は、あの不可思議な体験をうやむやの状態のまま過去に葬り去らなければならないのかと悔しさがこみ上げてくるを感じた。
気づくと私は駅を通り越して、商店街の方を歩いていた。スマホを見てかなりの時間歩いていたことに気づいた。しかしこの状況に至るまでの歩いた経路、歩いた速度などは振り返ればしっかりと記憶として思い出された。あの10分間だけが、思い出すことができなかった。来た道を戻ろうと、駅の方角へ足を踏み出そうとしたその時、シャッターに貼られた張り紙が目に留まった。そこにはこう書かれていた。
「時間失クシモノ、訪ネラレタリ」
私は、その時間の意味するものが、どこか今の状況と重なるところがあるように感じた。誰にも頼ることができない今、いっそのこと誰でも良いから話を聞いてくれる人がほしいと思い、張り紙を取り外して記載してある住所に向かった。
目的地に到着すると、赤レンガの塀で囲まれた少し風変わりな外見をした一軒家が目の前に現れた。インターフォンを押そうとした瞬間、塀の中から人の声が聞こえた。
「君、何か用かい?」
木の影に老人のような外見をした老爺が新聞紙を両手に添えて椅子に座っていた。
「あ、はい。ちょっとお尋ねしたいことが。」
とバッグから先ほど商店街で見つけた張り紙を取り出し、四つ折りを展開した。
「これ、あなたがお書きになったものですか?」
彼は新聞紙を閉じて、張り紙の方に目をやってかた何一つ表情を変えずに答えた。
「ああ、そうじゃが。」
「そうですか!少しばかりお話しを伺えたりできますか?」
と尋ねると、無言のまま家の中へと入っていき、私の方をむいて手招きをした。椅子に座らされて早速私は聞いた。
「あの、この張り紙に書いてある、時間失クシモノ、訪ネラレタリというのはどういう意味でしょうか?」
「君、そんなことを聞きにわざわざ訪ねて来たのかね?」
私は一瞬、短剣で脇腹を突かれたような気がしてどぎまぎしそうになったが、全てを曝け出そうとすぐに立て直して返答した。
「いえ。実は私、時間を失くしたんです!」
すると、老爺は身も蓋もないことを言うやつだと言わんばかりの表情をして言った。
「そうかい。誰かが相談に来るのは久しぶりじゃよ。そもそも張り紙を貼ったことさえ忘れとったからな。」
老爺の口ぶりにはどこか信憑性があり、彼が何者かであるような感覚に陥った。
「じゃあ、私が時間を失くしたというのはほんとなんですか?」
「ああ、ほんとだよ。」
「でもどうやって失くしたか覚えてないんです。いつものように決まった時間を過ごしていたら突然私の頭からスッと消えてしまったんです。でも記憶障害ではないと診断されたのでなんだかおかしくて。」
「君に一つ大事なことを教えてあげよう。」
「なんでしょうか?」
「君は時間を失くしたと言ったな?」
「はい。あなたの張り紙にも書いてあるように。」
「実は、失くしたのではなく、奪われたと言った方が正しいかもしれない。」
私は老爺の言った言葉がうまく頭に入ってこなかった。
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