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「“古の歌人”による翻訳」あとがき

冊子についての解説はこちら▼

私は大学の卒業制作で、“恋愛感情”をテーマに、4冊の冊子を制作した。

その4冊の中でも、「昔の和歌」の観点から“恋愛感情”について考察した『“古の歌人”による翻訳』という冊子の内容について紹介してきた。

今回は、その冊子についての、全体的な分析考察について述べていきたい。
(「あとがき」より引用)


まずは、和歌の分類について考察をしていく。

和歌の全体的な分類としては、相手を想う「恋心」から、恋の辛さ失恋などの「不幸な感情」へとグラデーションしていく。
『“現代の作詞家”による翻訳』(別で制作した、楽曲の歌詞をまとめた冊子)に掲載した歌詞などと比較すると、「幸せ」「不幸」に大きく分かれるというよりは、どちらとも捉えられるような、読み手によって解釈が異なってくるようなものもあった。


分類をしていく上で気がついたことは、主に7つある。

まず1つ目は、和歌には全体的に恋愛の歌が多い、ということだ。
百人一首でも43首「恋の歌」となっており、万葉集にも 866首「相聞歌」が収録されている。
また、現代のポップソングにおいても、「恋の歌」はとても多いように感じる。
恋愛において、溢れた感情を「表現したい」「相手に伝えたい」と感じるのは、今も昔も同じなのではないだろうか。


2つ目に、全体的な項目や並びが、「現代の歌詞」と似たようなものになった、ということだ。
細かい項目などは異なっていても、「愛おしい」 「幸せ」「逢いたい」「未来への不安」「一方通行の想い」「涙が出る」「死んでしまいたい」「いっそのこと」「振り回される」「恨む」「思い出し てしまう」など、共通する項目が多く、人間の根本的な感情は、時代を超えてもあまり変わっていない、ということに気づくことができた。

3つ目に、「幸せ」な感情を書いた歌よりも「不幸」な感情を書いた歌の方が多い、ということだ。
本冊子では、「幸せ」に分類された歌は2首のみだが、「恋をする辛さ」「失恋」に分類される歌は、38首もある。
これも、現代の歌詞との共通点であるように感じる。
「幸せ」を感じた際よりも「苦しさ」を感じた際に、溢れる想いの昇華方法として「和歌」という形をとる場合が多いのではないか。
また、苦しいときに詠んだ歌の方が表現力共感性に溢れており、『百人一首』や『万葉集』などに選ばれるのにふさわしいものが多かったのかもしれない。

昔の和歌には、現代の歌詞以上に「不幸な歌」が多いように感じた。
この理由としては、現代と比較すると、昔の恋愛は「苦しい」と感じる要素が多かったからではないか、と考える。
昔はなかなか相手に逢うことができなかったり、逢う場合も、周りに噂されないように人目を避け ないといけなかったり、身分によっては許されない恋愛もあった。それによって、昔は「幸せな恋愛」をする人よりも、「苦しい恋愛」をする人の方が多かったのではないか、ということだ。


気がついたことの4つ目としては、「恋の苦しさ」と「失恋」の境目がわかりづらい、ということだ。
現代の歌詞を分類する際は、大きく 「片想いの辛さ」と「失恋の辛さ」に分けることができたが、和歌では、「恋の辛さ」を歌っている歌であっても、「片想い」なのか「失恋後」なのかが判断しづらいことが多い。

この理由としては、昔は「失恋」の定義が曖昧だったからなのではないか。
昔は、相手と逢えないまま月日が経ち、そのまま終わってしまうような恋もあったり、逢えない間に相手が自分のことをどう思っているのか確認できない場合も多いように感じる。このことから、「失恋」の境が曖昧であったのではないだろうか。

5つ目は、現代と比べ、「逢いたい」という感情を歌った歌がかなり多い、ということだ。
現代の歌詞では、沢山ある「願望」のうちの1つ として「会いたい」という項目が挙げられたが、昔の和歌では「逢いたい」という項目の中で、さらに「逢いたい」「逢えない」「待つ」「逢えない時間が長い」「夢に出てくる」などの項目に細かく分けられる。全体的な歌数も、かなり多くなってくる。

この特徴は、「相手となかなか逢えなかった」という、昔の時代背景を表しているように感じる。現代では、スマートフォンが普及したことにより、相手との連絡手段も沢山ある。また、交通手段も沢山あれば、恋人と会うことを他の人に邪魔されるようなこともない。
それと比較し、昔の恋愛は、連絡手段も交通手段も圧倒的に少ない。また、相手と逢う際には、他の人に噂を立てられないように、人目を避けないといけなかった
このことから、昔は、相手と「逢う」ということでさえ一苦労であり、「逢いたい」という願望を多くの人が持っていたと考えられる。



6つ目は、歌の中で「命」を引き合いに出しているものが多い、ということだ。
和歌の中には、「今日を限りに、私の命が尽きてしまえばいいのに。」「こんなに苦しむのなら、いっそのこと死んでしまいたい。」「いつまでも生きていたいと思うようになった。」のように、「命」に関する内容が入っているもの多い
これも、現代の歌詞との共通点ではあるが、和歌の方が、よりこの傾向が強いように感じる。

この表現方法は、ほぼ全ての人にとって「何よりも大切だ」という共通認識のある「命」を引き合いに出すことで、自分の想いの強さを伝えるのに効果的であるように感じる。今も昔も、「命」が何よりも大切である、という共通認識は変わっていないのではないか。



7つ目は、「比喩を使用している歌が多い」ということだ。
和歌には、現代の歌詞と比較し、圧倒的に比喩表現を使用しているものが多い。
「さしも草のように激しく燃えている私の想い」「池に木の葉が落ちて浮かぶような、浮ついた心」「黒髪が乱れているように、私の心も乱れている」「刈り薦のように心が乱れて苦しい」「はねず色のように移ろいやすい私の心」のように、自分自身の感情や心の様子を他のモノに喩えている歌
「黒髪が霜のように真っ白になる」「櫛箱にしまい込まれた櫛のように、私も古びてしまった」「水無瀬川のように、人知れずやせ細 るばかり」「淡雪のように消えてしまうはずの命」のように、自分の状態を他のモノに喩えている歌
「かきつばたのように美しい赤みを帯び たあの子」「馬酔木の花のように素敵なあなた」のように、相手の様子を他のモノに喩えている歌
「芦の短い節と節の間のような短い時間」「山鳥の尾のように長い長い夜」「芦の刈り根の一節ほどの短い一夜」のように、時間をモノに喩えている歌
和歌では、様々な「比喩表現」が使用されている。

また、これ以外にも、和歌では掛詞枕詞など、様々な表現方法が使われている。
それと比較し、現代の歌詞では、ストレートに感情を表現することが多いように感じる。もちろん、現代の歌詞の中にも比喩を使ったものもあるが、和歌と比較すると圧倒的に少ない。
これは、昔と今で、歌に求めるものや重視するポイントが違うからであると考える。
昔は、「和歌の上手さ」を判断する際に、比喩や掛詞などの表現が使われている、ということも判断基準の一つであったように思われる。
一方、現代では、ストレートでわかりやすい表現が比較的好まれるのではないだろうか。
昔は「表現の面白さ」「発想力」を楽しんでいて、現代では「伝わりやすさ」を重視している印象である。


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