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世界放埓日記

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#短編

蜃気楼の恋人

蜃気楼の恋人

砂漠に吹く風は、日没と共に柔らかく変化する。
夕暮れに青白く浮かび上がるモスクは、あたかもその身に太陽の熱を溜めていないかのように白く輝いていた。
かといって、冷たい印象を受けないのは、優美な曲線と照明の加減なのだろう。
蜃気楼の残滓から生まれいずる確固たる楼閣は、砂を孕みちりちりとした風を伴って、触れたら和三盆のように崩れてしまいそうに繊細だった。
唐草模様の刻まれた天井を見上げながら、花模様に

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潮騒の恋人

潮騒の恋人

男は海が七つあることを知らなかった。それなのにこれ程に海に愛されている。

「君の故郷のトーキョーには、海はあるのかい」と彼は尋ねた。
目の前には、彼の生まれ育った小さな街をずっと見守り続けてきた海が、日の名残りを受けて僅かに朱く染まっている。大航海時代、貿易港として栄えた街だ。旧市街の赤みのかかった煉瓦で作られた古い建物は、海に面して所狭しとひしめき合っている。
「あるわよ」と答えながら、東京の

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脚と頭は使いよう

月に二度ほどふらっと恋人のもとに訪う私を、彼はどのように感じているのでしょうか。
知り合ってから干支は一周しました。付き合ってからワールドカップは2回開催されました。けれど、私達は一向に一緒に暮らそうとしませんし、結婚するという話題も全く会話に登らないのです。

深夜にテレビを点けて寝そべりながらサッカー観戦をする恋人に
「ボールを足で蹴るなんてお行儀が悪い」
と言ったら、彼は
「ヒールの高い靴を

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露草忌

私は父親の愛し方を知らない。
その事実は日常の背後に薄い靄を被せるように存在していて、それに気がつく度に心に陰りが生まれる。

幼い私の誕生日に、彼は手作りのクマのぬいぐるみを作ってくれた。
リバティ模様のそのクマを私はたいそう可愛がっていた。やがて訪れた思春期の真夜中、父と母が口論をしているのを壁越しに感じた時、跳ね上がりそうになる心臓の上にそのクマを載せて眠りに落ちた。
翌日、母は口論の理由を

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私の傷は誰のもの

レンタルの振袖を着られなかった新成人のために救済策を検討するのなら、
旅行代理店の倒産で旅行に行けなかった人のために慰安旅行を検討する人や自治体があってもおかしくないと思うのだけど、
世の中は道理で回っていかないことの方が多い。

鰻好きを自称するコメンテーターが「値段の高騰は本当に困りますよね」と眉を潜めていた。本当に鰻が好きなのならお金を払えばいいし、お金が出せないのなら我慢すればいいと思うけ

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目的のある美しさ

素敵な靴は素敵な場所に連れて行ってくれるというけれど、あれは嘘だ、と思う。
靴は私の脚を動かしはしない。ただ、私の歩みを時に柔らかく、時にしなやかに受け止めてくれるのみだ。そこが草原なら、柔らかい草の葉に乗った雨露が脚を瑞々しく柔らかく受け止めるし、そこが赤い絨毯なら、程よく締まったふくらはぎに影を添えるように導いてくれるだけだ。

私の家には物心ついた時からグランドピアノがあり、それは父親の友人

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「合格」と「1位」の違い

人から批判を受けて次の課題が生まれるたびに、己の未熟さを突き付けられる。
しかし、それと同時に、許されたような心地になる。
私はまだ成長出来るのだと。
まだ成長できると期待されているのだと。
誰からの批判も受けず、けれども選ばれることなく、ひとりむなしくあげた声は誰の心にも届かないで消えていくこと
それを人は無関心と呼ぶ。
私はそのことを最も怖れる。

2017年最後の本番は、クリスマスの日に行わ

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ジャージは究極のエレガンス

小学生の頃、ランドセルが嫌いだったから、青いリュックで登校していました。
アメリカから母が取り寄せたそのリュックはたくさんポケットが付いていたし、水筒を入れるホルダーもついていたので、鍵っ子だった私は鍵を失くさずに済みましたし、折り畳み傘を常備していたためにわか雨の日に風邪をひくこともありませんでした。
同級生や先生は言いました。
「どうしてリュックで登校するの」
私は答えます。
「ランドセルを背

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お金は金額以上に物を言う

銀行のATMで、きれいなお札が出てくる度に、先生、師匠への御礼のために取っておこうとする癖がある。
使われた形跡のないピン札は、たなごころに乗せると呼吸をするように僅かに撓む。いい紙だな、と嬉しくなる。

「僕の生徒の親御さんに、いつもレッスンの謝礼を裸で寄越す人がいるんだよね。この間なんて、それを子供に渡して『おつり下さい、って言って』って囁いてるんだもの。思わず『あなたのお子さんは商品ですか』

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鼻歌

合皮の靴履くくらいなら、裸足で私は構わない。
まずいカレーを食べるなら、お腹をすかせたままでいい。
柔軟剤の芳香が好みでないのなら、ミントティーをふりかけた芝生の上に、洗い立ての真白いシーツを広げよう。
オークのテーブルを買うお金が無いのなら、使われなくなったグランドピアノの天板を剥がして、辞典の上に乗せればいい。

ありのままの自分が好き!
なんて世迷いごとは口が裂けても言わないけれど、
私に授

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傀儡になる快感

新曲を準備している期間って、世界に対しておっきな秘密を抱えているようなわくわく感を内包している。
クリスマス前に、素敵な贈り物を用意して、それのラッピングを考えながら机の上の贈り物を眺めているような気分。

クリスマスまでの数日間に秘密を抱えて過ごすとき、世界は澄んだ空気に射し込む光を受け、輝きだす。
はやく好きな人に選んだ贈り物を渡したい。手紙にしたためた気持ちを打ち明けたい。
そんな気持ちを胸

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一匹の小魚として生きる

スイミーという絵本を知っているだろうか。

小魚が、大きな魚に食べられないように知恵を絞り、集団になり大きな魚のふりをして対抗する話だ。

幼稚園の頃にその本を読んだ私は、スイミーのように知恵を持った者は、それを人のために使うべきなのだと学んだ。

小学生にあがると、集団行動が増える。

集団登校に集団下校。

給食の時間も一緒ならばトイレに行くのも何故か一緒だったりする。

給食は残さずに食

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私はあなたのファンではありません。

今年叶えたいと思っていた夢が叶った。

小学生の頃、いや、幼稚園生の頃からもしかしたら願っていたものかもしれない。
それは、或るバレリーナとの共演だった。
私は幼稚園生の頃から、小学校6年生の頃に今の専門領域に出会うまで、クラシックバレエを習っていた。
通っていたお教室は、最高の環境だった。国際バレエコンクールに何人もの入賞者を輩出しているようなところで、私のクラスメイトだった人達は、世界中のバレ

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芸大生は行方不明になるというけれど

芸大卒業生の母は、芸大のことを「職業訓練校」と呼んだ。
芸大に在学していたころ、私は友人と、自分の母校を「東京芸人大学」と言っていた。
芸大生は、在学中に講義や課外活動で様々なスキルを身につける。
それを手にして世の中に放り出される訳だけれど、ご存知の通り、就職率は非常に悪い。

世の中では「芸大生は卒業すると行方不明になる」などという噂がまことしやかに出回っているらしい。
笑ってしまう。そん

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