「合格」と「1位」の違い

人から批判を受けて次の課題が生まれるたびに、己の未熟さを突き付けられる。
しかし、それと同時に、許されたような心地になる。
私はまだ成長出来るのだと。
まだ成長できると期待されているのだと。
誰からの批判も受けず、けれども選ばれることなく、ひとりむなしくあげた声は誰の心にも届かないで消えていくこと
それを人は無関心と呼ぶ。
私はそのことを最も怖れる。

2017年最後の本番は、クリスマスの日に行われた。会場の外にはイルミネーションに照らされた街が輝いている。
そこで私たちは助成金のための審査を受けていた。
審査員の顔ぶれは大学の教授や大きな企業の役員。
私たちの研究チームはそこで芸術分野の助成を貰うために演奏を含めたプレゼンテーションを行なった。
華やかな街を行き交う民衆を見下ろしながら、どうして私たちはここにいるのだろう、と思った。むき出しの肩が冷えているのを感じた。

芸術というのは難しい。
明確な指針や数値があるわけではないし、
伝えたいものがあっても、それが相手に届かなくては意味がないと私は考える。
審査員たちの質疑応答は、多岐に及んでいた。
司会が「そろそろ時間です」と審査員を諌めたが、質疑は終わらず、結局次のグループの準備に当てられていた10分間の休憩は無くなった。

結果発表までの間、聞きに来ていた関係者は「質疑応答の量は他のグループと段違いだった」「一番興味深かったし、明確だった」と評価していた。
我々も手応えを感じていたし、不遜ながら他の研究グループに比べ、着眼点も、その解消方法も面白かったと思う。

それなのに、読み上げられた結果は、2つのグループによる賞金の山分けだった。我々もその一員だったが「は?」という間抜けな声を出してしまった。隣で、共同研究者も「へ?」と口を開けたまま固まってしまった。
もうひとつのグループは大人しく座っていたので、余計に私たちが間抜けに見えた。
散会後に審査員を引き止めて講評を求めた。その時に言われた言葉はこれまで我々が受けたことのない手厳しいものだった。
研究テーマは面白かったけど、それが生かされていない
実際の演奏がこれでは意味がない
などなど。
審査員でない専門家の方が見るに見かねて「でも面白かったよ」と口を挟んだ。
でも我々は悔しすぎて、その方にお礼を言うことも忘れていた。

今まで邁進していた足元をすくわれたようだったし、勢いづいて調子に乗っていた頰をはたかれたときのように、視界に急速に星が散った。
この光、イルミネーションより鮮烈。
そんなこと考えながらかろうじて足を踏ん張り講評を聴き続けた。

帰り道、電飾が照らす道をとぼとぼと歩きながら、共同研究者が
「どうして我々は批評を求めるのだろうか」と呟いた。
「滝行みたいだね」もう一人がおちゃらけたように添える。
「批評を受け付けない表現なんて、自慰行為に等しい」私は吐き捨てるように呟く。
悔しさと同時に、安堵が体を襲う。次に繋がった。けれど、1位ではなかった。
しかし、1位でない理由は全て審査員の講評を聞けばわかった。

見ることは見られること。
批評されることは、批評する人を選ぶこと。
知識というフィルタを通して世界解像度は上がる。
批評を受けながら、私たちは彼らの考えを知り、彼らの積み上げてきたものに思いを寄せて、尊敬を深める。
彼らの批評を浴び、それにより磨かれたり傷ついたり、今後の指針を決めてゆく。
そうして新しく隆起する皮膚は、艶々とした輝きを帯びる。
その皮膚は、心無い批判や薄っぺらいおもねるような好評にいちいち歪まないほど強靭になっていくのだ。

目指す場所がどこにあるのか、
そのために必要なものはなにか。
目的地に早く行き着くための最期の一手は批判だったりする。

私はだから、批評を求める。
そこに信頼関係が結ばれているから。

#日記
#エッセイ
#短編

余談だけど、私は me tooという言葉が大嫌い。主語が無いから。留学中、言語に慣れてなかったときにとりあえず同意ばかりしていた経験が蘇って苦々しくなる。

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