目的のある美しさ

素敵な靴は素敵な場所に連れて行ってくれるというけれど、あれは嘘だ、と思う。
靴は私の脚を動かしはしない。ただ、私の歩みを時に柔らかく、時にしなやかに受け止めてくれるのみだ。そこが草原なら、柔らかい草の葉に乗った雨露が脚を瑞々しく柔らかく受け止めるし、そこが赤い絨毯なら、程よく締まったふくらはぎに影を添えるように導いてくれるだけだ。

私の家には物心ついた時からグランドピアノがあり、それは父親の友人の奥様のお下がりの古いものだったけれど、状態が良くて、私はそれで3歳からピアノを習っていた。
家には毎週ピアノの先生がお稽古をつけにいらしてくださるから、ピアノはいつも乾いた布で清められ、半年に一度信頼の置ける調律師さんが音を整えに来てくださった。
そんなピアノを与えられていた私だけれど、自身のピアノの才能はからきし冴えなかった。

小学校5年生の頃のことである。
当時の私はモーツァルトやブルグミュラーに飽き飽きしていて(”貴婦人の乗馬”とかなんだよ知らねーよ、”むじゃき”とかなんだよ押し付けんなよetc.)、それでも小学校1年生の頃から取り組んでいたバッハの作品だけはずっと弾き続けていた。
2声のインベンションと3声のシンフォニア。緻密で甘えを許さない曲。地道な練習と分析を行わないと、曲の持つ背景は見えてこない。けれど、その発掘作業にも似たプロセスが、私はとても好きだった。
友人やその保護者には「バッハが好きなんて特異ね」と驚かれていたけれど、私としては、バッハの構築する揺るがない美や、論理的なのに胸に迫る音楽は、標題音楽のようなごまかしがない気がして好感が持てた。だから、年に一度の発表会で欠かさず披露していた。

その日に先生に宿題として与えられたその曲は、今でも諳んじて弾くことが出来る。それまで弾いてきたどの曲よりも大切な曲。響きが豊かで、まるで雨上がりの林檎畑を西日が一気に照らした時のような美しさと、寂寥を感じさせる曲。

この声部は柔らかく弾きたい。
けれど、そうすると次に出てくるモチーフとの整合性が取れなくなる。
曲の頂点をここに持ってくるためにはどうやって組み立てたらいいのか。
音楽を専門に学んだ今となっては当たり前になった、考えながら演奏すること。その面白さに気付いたのはこの曲がきっかけだった。一週間、丁寧に指先で曲を覚え、心で歌い、脳でバッハに質問しながら、その曲を練習した。

待ちに待った次の週のお稽古、張り切って曲を披露した私に、先生はさまざまなアイディアを提案してくれた。「この声部からこの声部に受け渡さないと、メロディが宙に浮いてしまうよ」「ここはこんなバランスで弾いてるけれど、どっちの声部が大事だと思う」
私はお稽古の時間で考えて試そうとする。けれど、上手くできない。泣きそうになった。手を伸ばせば届きそうな場所に、素敵な宝物が待っているのに、あと少しのところで背伸びが出来ない。
しょんぼりしたままレッスンが終わり、私と先生は、母がお茶の支度をしている居間へ戻った。

母と私は、お茶を挟んで先生に向き合う。普段は、記憶に残らないくらいたわいもない会話をしていたのだろう、何を話していたのかなんて全然覚えていないけれど、この日のことを私はよく覚えている。

「娘に新しいピアノを買ってやろうと思います」

母はそう先生に伝えた。私は驚いて彼女を見上げる。母は先生を真っ直ぐに見つめていて、その顔は今まで見たことのない表情を浮かべていた。居間からは、音楽室の音は漏れ聴くことができるのだろう。これまでも、母が私の譜読みの音間違いを居間から指摘していたこともあったから、母が私の音を聞いていたのは明らかだった。

突然のことで、反応が追いつかない私に追い打ちをかけるように、先生は
「そうですね。私もそれがいいと思っていたところです」
とこともなげに答えた。

私はその会話の秘めた意味をよくわかっていなかったし、別に新しいピアノなんて欲しくなかったけれど(レッスンで落ち込みすぎて)、取り敢えず次の週に表参道にピアノを見に行くことが決まった。

ところで私は左利きである。物を書くのも箸を持つのも傘をさすのも握力が強いのも左。ピアノを弾くときもそれは現れていて、左手で弾く低い声部の方が上手く弾くことが出来た。連弾をしていても低いパートを選ぶような私が、多声部で作曲したバッハを愛したのは必然だったかもしれない。左手で和音、右手でメロディ、といった単純な曲より余程たくさん左手が活躍できたから。

ピアノを選ぶにあたって、沢山のピアノを試奏した。明るい響き、深い響き、強いもの、柔らかいもの。沢山弾くうちに、自分の出したい音が見えてくる。先週、自分の技術の無さに泣きそうになったことが遥か昔に感じられた。
「私はこういう音が出したいの」
そうピアノに話しかけると、ピアノは
「こうかしら」「あなたはこう思っているかもしれないけれど、ここはこう弾くといいと思うよ」
と答えてくれる。その答えは全部違って、どれも面白かった。私はその中で一番自分に合っていると思ったらピアノを選んだ。
親は後になってその時期のことを
「あなたの練習を聴いていて、ああいう練習ができるようになったのなら、いいピアノを用意しないと、と思ったの」と言っていた。

そうしてうちに来たピアノはとても大事にしていたけれど、申し訳ないことにその二年後に私はピアノを辞めてしまう。

そのピアノでシンフォニアを終わらせる頃には私ははっきり自分のやりたいことが見えてしまったのだ。
シンフォニアが終わってから取り組み始めたイタリア組曲を、結局私は全て弾かなかった。

私は低音が好き。
構築された美しさが好き。
なによりも、音色にもっとこだわりたい。
だから、あの楽器をやりたい。

私のその気持ちはどんどん募るばかりだった。
そして、小学六年生のピアノの発表会でシンフォニアの最後の曲を引き終わった後、母は「銀座の楽器屋さんに楽器を見に行こうか」と提案をしてきた。

そこで出会った楽器と、私はやがて人生を共にする決断をする。

ピアノの先生はその決断を喜んでくれた。彼女の教えてくれたことは、私が高校・大学受験をして、彼女の後輩になってからも私の行く先を照らしてくれた。

時折、ピアノの蓋を開け、あの曲を弾いてみる。

色々な知識を得て、様々な音楽に出会った私に、それでも尚感動を与えるその曲を。自分がこの場所に立つきっかけとなった、その曲を。同じ曲を別の人が聴いたって、きっと私のいる場所へは辿り着けないのだろう。

自分の中に地図を描くこと。それが生きることや勉強することの楽しみで、その楽しみを得るには最高の相棒が不可欠なのだ。

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