一匹の小魚として生きる

スイミーという絵本を知っているだろうか。

小魚が、大きな魚に食べられないように知恵を絞り、集団になり大きな魚のふりをして対抗する話だ。

幼稚園の頃にその本を読んだ私は、スイミーのように知恵を持った者は、それを人のために使うべきなのだと学んだ。


小学生にあがると、集団行動が増える。

集団登校に集団下校。

給食の時間も一緒ならばトイレに行くのも何故か一緒だったりする。

給食は残さずに食べなくてはいけない決まりだった。

昨日は、海藻類の苦手なハナちゃんが、給食の時間が終わってもワカメを呑み込めずにいた。

彼女は掃除の時間が始まっても涙を流しながら咀嚼を続けていた。

級友たちは彼女の机と椅子だけを教室の中央に残し、その周囲を避けるように箒と雑巾で清めていた。

廊下からそれを眺めていると、舞い上がる塵や埃の中央で、彼女のおさげに結わえ付けられたピンクのリボンがくすんでみえた。


「そんなにいやならどうして食べ続けるの」
母は心底不思議そうに私に問うた。

家に帰ると私は、用意されたおやつをほおばりながら、母に昼時にハナちゃんに起こった出来事を報告した。

母は、自分のためにコーヒーを準備しながら

「食べたくなければ、食べないという選択肢もあるのよ。残さずに食べることはあなたたちの年齢なら大切なことだけど、心に負担のかかる食事は栄養にはならないもの」

と続けた。
私は、昼休みの情景を思い出していた。
ハナちゃんの口の中でぐちゃぐちゃになったワカメは、きっとぬめぬめして暖かいのだろう。
目の前の葛餅の質感と合わさり、私は途端に黒文字を持つ手を引っ込めた。

普段優しい先生が給食の時間になると豹変することを、なんとなくおかしいと思っていた矢先だった。

そういえば先週もそうだった。

給食につくデザートは級友たちの間で大人気で、デザートの日に欠席者が出ると、いつもおかわり希望者が殺到する。

その中でじゃんけんをして勝った者にプリンは渡されるのだが、その日はじゃんけんに勝ったにも関わらず手に入れたプリンを食べきれなかった男子がいた。

先生はその男子に

「みんなが我慢しているのに、あなたはそれをわかっていない」

と告げ、クラスメイトひとりひとりに謝るよう命じたのだった。

その男子は教室の端から順々に机の間を進んでいった。

彼が私の前に来て

「プリンをのこしてしまいごめんなさい」と頭を下げた時、

普段おちゃらけたような笑顔しか見せない彼が、眉根をひくひくと痙攣させながら頭を下げるのが間近に迫ってきた。

私は

「気にしてないから謝らなくてもいい。家に帰ればもっとおいしいお菓子あるもん」

そう答えた。

間髪入れずに先生が教壇をこつんと指の関節でたたいた。

彼は決して私と目を合わせようとしなかった。

私は一度咳払いをしてから席に座り直し、

「いいよ」

他の級友たちと同じ言葉を、反芻した。

彼の履きつぶした上履きが床に擦れながら後ろに遠ざかっていく。

教壇に立ってそれを睥睨する先生は、いつもよりも口元が曲がって見えた。

じっと凝視していると、先生の姿が大きくなったり小さくなったりしだした。

ああ、意外と先生って白髪が多いのね。黒髪だと思っていたけれど、まるで私のひいおばあちゃんみたい。

私の網膜に、白髪の先生の虚像が投影される。

「ごめんなさい」「いいよ」「ごめんなさい」「ゆるす」「ごめんなさい」「うん、いいよ」

気が付いたら、給食の時間が終わっていた。


普段よりも静かに始まった掃除の時間中、どうしてか私は理由のわからない苛立ちと悲しみで泣き出しそうだった。

その感情に「やるせない」と名付けられていることを、私は数か月後に図書館で借りた本で知ることになる。


母と食べる3時のおやつはいつも美味しい。

しっとりとしたパウンドケーキをほおばりながら、私は

「先生はスイミーじゃ、ないのかなあ」

と尋ねた。

「知恵があるだけでは、本物のスイミーにはなれないのよ」
母はそう言って、自分のパウンドケーキにフォークを突き刺した。私のケーキよりも分厚いなあと思いながら、彼女がそれをほおばるのを眺めていた。
マグカップに描かれた1匹のクマがこちらを向いて微笑んでいる。


翌日から私は、ランドセルを背負うことをやめた。

「どうしてリュックで登校するの」

先生は朝に私を見るなり、腰に手を当ててそう言って私を見下ろした。

「ランドセルがいやになったからです」

「お父さんお母さんが買ってくれたランドセルでしょう。大切に使いなさい」

下駄箱の脇で話し合う私たちの傍らを、通りすがりの児童たちがちらちらと見遣りながら通り過ぎていく。

「お母さんに『娘がリュックで登校したいと言うので、今日からリュックで登校させます』と書いてもらいました」

私は、リュックを肩から降ろし、チャックを滑らせて連絡帳を取り出した。

なんて簡単に荷物が取り出せるのだろう。

私はもっと早くにリュックにすれば良かったと思った。

先生に連絡帳を押し付け、私は廊下を飛ぶように走った。私の肩の上で青いリュックがさくさくと弾む。

普段なら「廊下を走るな!」と声が飛ぶのに、今日は聞こえなかった。


席に着くと、まず真っ先に席が近い女子たちが駆け寄ってきた。

「どうしてランドセルをやめたの」「先生におこられるよ」

口々に彼女たちは私を問い詰めた。その後ろにはハナちゃんもいた。

クラスの中でも小柄なハナちゃんが、下校時に「ランドセルはおもたくていや」と呟きながら、集団に遅れないように大股で歩いていたことを思い出した。

「ランドセルで登校しろなんて決まりは無いんだよ」

私は彼女たちに向けてそう答えた。彼女たちは顔を見合わせ、肩をすくめた。
予鈴がなり、それぞれが席に戻る中ハナちゃんが私の耳元にやってきて

「ほかにもリュックの人がふえたらお母さんに言ってみる」

と囁いた。私は「ふえないとおもうよ」と答えた。


集団登校から別れて一人で家路に着く間、私は飛び跳ねるように歩いた。

「こんにちは」

「こんにちは。今日は遠足だったのかい」

道中にある図書館に寄ると、入口に立つ守衛のおじさんが話しかけてきた。

「ううん。今日からリュックで登校することに決めたの」

「そうか。リュックなら図書館の本もたくさん入れられるから良いね」

「入れほうだいだよ」

私はそう答えて図書館の中に入った。

図書館は固いじゅうたんが敷き詰められていて、鉛筆が転がるような小さな音でもよく響く。

リュックのチャックは音もなくするすると開いた。

なんて快適なんだろう!

貸出カウンターには、同級生の亜美ちゃんのお母さんが座っていた。
物静かな亜美ちゃんとは、あまり話したことが無かった。もしかしたら、亜美ちゃんのお母さんの方が、私と向き合う時間が多いかもしれない。

私が本を差し出すと、彼女は知り合いにだけ見せる少しだけ親密な微笑みを浮かべ、本を静かに機械に滑らせた。


世界は学校だけじゃない。

薄暗い図書館から出ると、午後の日差しが若葉を透かして地面を照らしていた。

母が、今日のおやつは柏餅だと言っていた。

図書館の庭には、大きな鯉のぼりたちが、一匹いっぴき気持ちよさそうに空を泳いでいる。

私はスイミーにも、スイミーと一緒に泳ぐ赤い小魚にもなれないんだろうな。

スイミーのように知恵をつけたい。

でも、それを「みんなのため」と振りかざすのは違う気がする。

鯉のぼりはそれぞれに体をくゆらせながら空を登っていく。

大きく伸びをすると、初夏の香りのする一陣の風が、リュックと背中の間を勢いよく抜けて空に消えていった。

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