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芝居小屋

旅芝居の話、芝居の話、舞台の話。
いやこれはたぶん人間の話じゃないかとも考えもする。だからいま書きたいと思った。
旅芝居・大衆演劇を観る機会が何度かあり、思ってもいなかった観劇の機会に恵まれたりもしたし、SNSで流れてきた旅芝居へまつわる提言めいたものというかそのようなものも目にした今月の最後に。
どうしても一方向からの発信となってしまうことについてはすごく悩んだ。
以下はあくまでわたしの観方考え方、
ひとつの客席を埋めるだけのわたしの観方考え方でしかなく正しいかもわからない。
それをSNSという一方的な発信からすることに対しては本当に謝りたい。謝って済むことでもない。
でも黙っているのも違う気がして、置いておきたい。
最近考えたりここに書いたりもしていたこととも繋がる気もしたから。
本当に長くなったので、今日は(今日も?)どうかどうぞよろしい方だけ、もしお付き合いいただける方も時間がかかるからお時間のある時に、とも付け加える。

旅芝居の芝居は、日々食べていくことに直結する日替わりの出しものだ。
旅芝居は、基本的に家族や血縁関係を中心とした一座で、
そこに血のつながらない者たちも何かしらの縁や希望で入団したりもしている。
すべての人が養成所だったり他のプロの演技演劇指導を受けている訳ではないし、
もっと言うと毎日が舞台故に最低限の学校教育すら受けていないという者ももしかしたら少なくない。
(ここはここが本当に難しいけれど考えねばならないことかもだとおもう)
台本芝居……も近年は少なくないしその是非はわたしには必ずしも「是」とは言えない言わない理由もあるし知っているし聞いている。
はさておき、いつ誰が作ったかもわからないものすら多い口立てで伝えられ覚えてきた芝居を継承し、日替わりで芝居を舞台にかける。
さらに日替わりで踊りもする。
すごい仕事だ。
舞台に立ちながら、親兄弟や年上の者を見ながら、
舞台のことも生きていくすべも学び、集客し、稼ぎ、次の公演先を確保し、食べて行く。歳を重ねる。当然ながら出会いも恋も愛も生きるも死ぬもある。
芝居も人間も「完璧にできあがって」いない状態の方がきっと多いまま、日々が明日がやってくるのだろうと思うと、想像するだけで気も遠くなる。それは役者だけでなく我々も同様ではあるが。
 
だから「いろんな線引き」が
とても難しくなってしまうことも多いのではないか、
と、舞台を観ていて思ったりする。
ずっと昔から。観始めたもう約20年前から。
芝居の中と現実、さっきまでの楽屋と舞台の上、役と自分、仕事とプライベート、その線引きや切り替えのようなことが、とても。
それは「プロの仕事」としては絶対にアウトだ。
なぜならやらなきゃ絶対にいけないことだから。
けど。だから出てくるんじゃないかな、って、
芝居の中や舞台の上に「不適切」な言葉や表現や言動が、時に目に余るを通り越し余りまくりまくるほどに。

そもそも時代劇とは「今の時代とは違う時代」の価値観や型も少なくない芝居じゃないか。
でもそこには時代を越えてもそれでも変わらず大事なものもある、
ということを伝わる伝えるという芝居を日々やる訳で、
そこに「線引き」が出来にくい状態、
もっと言うと線引きの線すら曖昧なまま上がること、
いや、上がらざるを得ない状況なども少なくなくあることで「言ってはいけないこと」「やってはいけないこと」は出てきもしすぎ、日々の舞台に溢れている。あってはならないのに、だ。
「言ってはいけないこと」「やってはいけないこと」
それは、人としてのだ。
でも残念ながらきっとなくなりはしない。
芝居が、旅芝居が、だから(だけ)じゃない。
旅役者(だけ)がわるいんじゃない。

人間だからだ。
 
じゃあどうしたらいいんだ。

人として、「ちゃんとしようとしよう」なんやないかな。

「ちゃんと」それは文字通り「ちゃんと」だ。
 
これだけで終わると芝居の話じゃない。
わたしは芝居の話を舞台の話を歌の話をしたい。
 
ぐるぐると考えていて思い出したのは今は亡き喜劇作家である師匠の言葉だった。
 
大阪喜劇の生みの親は、老年にフリーとなり、私塾を作った。
「ギャグなんかいらん。筋(すじ)で笑わせ泣かせなあかんねや」「せやのに!」が口癖だった。

ちなみにそこに新喜劇も全然好きでもなくそもそも観もしていないが演劇は観るのもつくるのも好きだったしなにより書くことが好きで食っていきたくてなんかなぜか入った当時最年少だったのが、わたし。一番生意気でだから一番面白がられて毎回バトルして、なのに「先生やっぱりわし台本やなくて文章がやりたい文章で食うていきたい」とか言いながら同時に旅芝居の芝居小屋に通っていたのがわたし。

昭和13年生まれという時代の人だし口も悪かった。
だから以下引用する言葉たちは誤解も招くかもしれないし伝わらないかもしれないが書く。
 
いつも言っていた。「差別はあかん。絶対あかんのや」

「でもハゲとかデブとかブスとかオカマとかいうギャグいっぱいあるやないですか!」

ある日新喜劇の大ファンで好きだから入塾した生徒が戸惑いすぎて言った。

 先生はいつものように激昂した。

「それに逃げるのがアホな本書きとアホな役者や! 」

アホはあかん。関係性によって伝わりにくい言葉(のひとつ)だともとても思う。

でもそのまま書くしこの後も出てくると先に言っておく。

さらに、こんなこともよく言っていた。
 
「あの子ら(喜劇の役者)もな、全員が全員いま「ちゃんとできる」訳やないねん。
なんのセリフも言えんなんも出来ひん舞台に立つのがやっとみたいな子もおる。
その子らでもその子らも舞台に立ってる。立たせたらなあかん。
皆、舞台に立ってるんや。食うていかなあかんねや。
目の前にはお客さんがいるんや。
そこで「いじる」いうのは時にはあかんことだけやないことも時にはある。
「おい、そこのあほ!」せやけど大事なんは、
「そこのあほ!」言うたとき、言われた言わせたときや。
そのまわりの子らや。ちゃんとせなあかん。
ちゃんとフォローをせなあかん。
どない言葉を添えるかや。どう返すか反応するかや。
その子自身がどう「返せるか」。
その子が返せなかったらまわりが返す。
一言で、変わることはある。変えられる。
芝居はひとりでは出来ん。皆でつくるもんや。
そないして皆で考えて、育って育てられてゆくんや」
 
自分のその箇所を殴るように叩きながらいつも言っていた。
 
「ここ(アタマ)やない。ここ(心)で書くんや、(アタマを)降ろしてくるんや」
 
でも、言いすぎる。
 
「ここ(心)で書け。ここ(心)で芝居せぇ。
せやけど、ここまで降ろしてきたらあかんで」
 
下ネタだ。当時(から)こういうことが「無理」だったしその理由もあるわたしは無視をしていた。

世の中にはあっては絶対にならない理由で例えば軽い下ネタでも性的なことが含まれると絶対に受け付けられない人があってはならないけれど存在する。
例えば今から書くことすらさまざまな理由で受け付けられない人も居るだろう。だからそんな方は次からの2つのブロック(2つの段落)までを飛ばして読んでね、またはここで戻ってね、とは先に言っておいてから話を進める。
 
下ネタもとい性的な言葉やギャグも、また、難しい。
関係性を考慮した上や合意の上での大事さはもしかしたらないとは言い切れないのかもしれない。
時に下ネタが下ネタだから人の心を救うときは、ある。
でもたくさんのお客さんが観る舞台においてはたくさんとの関係性を考えると下ネタ性的なネタは、それがウケることは(絶対に近しいレベルで)たぶんめちゃくちゃ難しい。
安易に使われがちな下ネタは本当にくっそつまらない(とわたしは思ってしまう)し芸のない者の逃げになっているなあと感じることが少なくない。
関係性を考慮しない場で使われた場合、あってはならない誤解や被害や加害や事故にすらつながりかねもしない、絶対にあってはならないことにつながりかねない。だから性的なネタや性そのものはやはり一番難しくやはり一番と言っていいほど危険なことかもしれない。
性的なことは人間と人間がいる以上ある意味めちゃくちゃ(もしかしたら何より)大事だ。人間で人間と人間だからめちゃくちゃ難しすぎることででも大事なことだ。関係性や配慮や合意の上で。え? そんなんじゃ出来ない? 出来る。言い切る。だってそうじゃないといけないと思うから。あ、これは旅芝居だのの話じゃなく人間の話ね。普段の普段から私たちの身の回りの。昨今ちょっと目に余る事件やニュースやドラマがあるから書いておきたかった。話が混ざり誤解を与えないように言っておく。自分の体も他人の体も傷つけては傷つけられてはいけない。体も。心も。絶対にだ。

話を戻す。旅芝居の舞台において「見る」「見せる」の関係性においての「色気」「エロい」は(旅芝居の場合)排除や嫌がる客も少なくはないが、わたしは必ずしも悪とは言い切れないのではないかとも思う。
物語やストーリーや演者の技量やセンスや伝承された様式美を楽しみや目当てにする人もいれば、
舞台に立つ演者の見た目や体形や醸し出す演者として人間としての色気を楽しみにしたりするひとやことは、許される場所つまり「劇場(内)」での許される範囲つまり「舞台上で見せている見せられる」芸や人やものに関しては、間違いではない。そう見たり感じたりするという楽しみ方をしない出来ない者たちによっての否定や排除は傲慢だとわたしは思う。
身体表現として、肉体で表現をすることが(ことも)「舞台」であるからこそ、多様な観方が許されるはずだからだ。
これは旅芝居だけじゃなく、どんなどれしもの「舞台」に言える話だけれど。
ただし、「だからといって」これもここでも「距離感」と絶対に「あってはならないこと」「起こってからではすまないこと」を考えることは絶対に大事すぎるとははっきりと言っておく。またいろんな話が混ざったかな。でも、うまく言えていないかもだけれど言っておきたい。
 
関係性という話も、続けてしてみたい。

劇場には、いろんなお客さんが居る。
そもそも日々一見さん「が」いる。どんな常連さんも応援さんも最初は一見さんだったはずだ。でも距離の近い旅芝居では舞台と客席双方共によくもわるくも麻痺をしているしてしまうことが多い。本当に「労働と信仰」の世界となってしまうのだと思う。
御時世もありますます生存競争の激しくなった旅芝居ではどうしても固定客ばかりを構うことそうして逃さないようにすることに目が行ってしまいがちの傾向だ。よくない。
でも絶対駄目かと言われたらたぶんそうじゃない。
来てくれているお客さんへの関係性を考えた上で他者を傷つけない上でのいじりやアドリブは時に要るかもしれない。堅苦しいだけがよい訳じゃないから。「来た」「来ている」「今ここに居る」「「今」の場と空気を共有している」ことだから。
もっと言えば個々の客の芝居の観方は自由であり、
芝居の「物語」や「テーマを追う」観方だけが必ずしも正しいとは言い切れないと思うから。
でもそれは演者として考えたら、「役の者」じゃない、なくなってることも少なくないよなあ。
じゃあ、どうする。
役の者のまま、でも、話や物語から脱線したらさせたら、「戻る」「戻す」が大事であり、それが腕であり芸じゃない?
誰も傷つけず、芝居の中の人を大事にしながら、芝居の中の人として生きながら、目の前のお客さんも大事にしながら、「笑い」をとる、笑いを入れるって、めちゃめちゃ難しい。なら、燃えてこない?
芝居はみんなのものだし、
金銭の発生するプロとしての笑いのとり方はプロとしての責任でありやらなければいけない「仕事」だ。そこに愛はあるか。矜持はあるか。芝居への。お客さんへの。一見さんへの。共演者への。その関係性を考えた上での。あなたの技量と愛はどれほどか。これは芸の話であり「仕事」の話だとわたしは思う。

まだもうちょっと芝居の話を、する。してもいい? 
しんどかったら、ここで戻ってね。またね。

先日観た芝居(のひとつ)は『曽根崎心中』だった。
隣り合った若いお客さんが号泣していた。
「本当に好きな芝居で、だからゆかりの神社にも行ったり史実を調べたりした」と話していた。
この日彼女の隣で芝居を観られて本当によかったと思った。
女郎だって花魁だって他の者たちだって必ずしも「かわいそう」じゃない。かわいそうなだけの存在だけじゃない。

古い芝居や現代では通用しない芝居「それどうなの」な芝居が必ずしも全部だめだからなくせやるな新しいものの方がいつもあたらしいから絶対に素晴らしいというのはわたしは違うと思う。それが誰かの例え正義や善意からだとしてもだ。なぜならそれはそれも押し付けではないかとわたしは思うから。
むしろ古いをそのままやることでその矛盾や「どうなの」をそれぞれに考えさせてくれることだってあるんじゃないか。
これもその後のフォローじゃないかな。
芝居後の口上挨拶という時間のトークがある。
台本がないからこそその劇団流や自分流のリメイクをしたっていい。それも腕の見せどころじゃない?
落語は今も生きてる。古典と古典リメイクと新作があるから。それぞれを得意とする、いや、それぞれを「自分のもの」として稽古し十八番にしようとする芸人たちがいるから。
忠臣蔵を知らない客席に媚びていたりあたらしいことばかりだけをしていたら忠臣蔵はなくなってしまうんじゃないかな。
 
新派『残菊物語』のお徳は役者に尽くして死んでゆく女の話じゃない。
先日、新派や古典芸能をとても長い間観ている先輩女史とこの話で盛り上がった。
女史は言った。「身分を超えて仕上げた達成感よ」
更におっしゃった。「ちゃんと観てよ」
新派は女が虐げられる芝居(だけ)では(決して)、ないとわたしも思う。
「まあこっちは少数派だからなあ」
 
演歌もね。
先日、とあるなんてことのない演歌を踊る役者をみた。
わたしはその歌を今まで「男が女に向ける男の自己陶酔の古臭いつまらない歌」だと思っていたし今も思わないことはない。でも侍姿(?)で踊ったそれを見て、「あ、侍だ。侍だからだ」と思った。
舞台に立つ役者がどう思ってその拵えやそうしたかは知らない聞いていない。また勘違いや深読みやこじつけかもしれない。わたしの悪い癖であり押しつけてしまいがちなことだ。
だからこれは私の感じ方でしかない。でも「ああ色っぽいな」そして「さすがやな」と思った。
それこそわたしの目がくもっているだけかもしれない。
いや違う。言いきらせてほしい。技量だ。技量と色気だと思った。勘違いかもしれない。
 
真っ白にしすぎるなりすぎる世界というものは、
必ずしも「正」だけじゃないんじゃないかとか
それは無理じゃないかでも無理とは言いたくないしないからでもとかわたしはいつもずっとぐるぐると考えもしていているのだが、
そのような中、なぜか大好きな漫画『天使禁猟区』のことを思い出したりもした。
肝心の主人公たちの恋愛には一切興味がわかないし結構どうでもいい。
そもそも禁断だし。でもそれがなかったら物語は始まらないし進まない。
エヴァンゲリオン並みにいろんな登場人物が登場する。
その中で、中盤以降に登場する理由があって仮面で顔を隠した白ずくめの独裁者セヴォフタルタ、
理由(わけ)があって「歪みもなく一点の曇りもない、ただ真っ白な世界」を目指すその人と、
理由(わけ)があって神父の格好をした反乱軍のリーダー・ザフィケルのこともふと思い出した。この2人には実は過去の因縁があるネタバレごめん。
ちなみにわたしはこの漫画ではザフィケル様推しだった。自分でもアホだと思うが今でもね。
 
「押し付けるんやない。投げかけるんや。
投げかけてそれを受け取ったお客さんの心に伝わるように必死に考えるんや」
 
全然できていない。だからわたしはいまだにうるさい。なのに何も言えていないのにただ傲慢である。

「舞台を、すべての芝居を、人間を殺したらあかんのや。人間をばかにするな」

わたしもこれまでの人生で口で言葉で言動でさまざまな人を傷つけてしまってきたと思うしきっと今もかもしれない。考え続けたい。
 
どんな人も、
人それぞれに持つ孤独やさみしさやしんどさを抱えて生きている。
そんな人々が、
芝居小屋の、劇場の、舞台に立って、
芝居小屋に、劇場に、来て、通いもして、
我々客席の者は、
芝居の中の人や舞台に立つ人に自由に感情移入をしたり自由に
物語を楽しんだり、
アタマではなにも考えずに楽しい時間をすごしたり、
恋したり、ときめいたり、
それぞれの観方で舞台を楽しむ。
舞台の上には見た目も技量も年齢もキャリアも皆違う様々な役者が居て、
そのそれぞれの芸や技量や顔や見た目や人間性(?)をそれぞれに「いいな」「好き」「大好き」というお客さんや応援さんが居る。互いに心の支えとなり互いの日々と人生を生きるということだって、ある。
時に勘違いや誤解やすれ違いもしながら、距離の近い、ほんまは遠いかもなのに近い(と勘違いな)距離の舞台で、人間が生きている生きてゆく世界で。
それぞれに払った木戸銭分と公演時間内の舞台を演じる、観て楽しむ。
そうして舞台と客席は気持ちを交わし合い生かし合う。
わたしは、それが劇場だと思うし、思っている。
そして芝居小屋とは劇場とは世界の社会の縮図だ。
旅芝居は常に今現在現代をうつす鏡で、
常に時代と人を写し掬い上げ共に生きる人間舞台だと思っている。
最後にもう一度言う。
これらはあくまでわたしの考えであり気持ちだ。
正しいかどうかもわからない。だから考える。
本当にいろんなことを祈っている。
違う。祈ったって現実は変わらないことをわたしはいやあなたもきっと痛いほど知っている。
だから考え続けたい。感じたい。人間をね。



3年半前にもこんなことを書きました。
賛同して下さったり、拡散して下さったり、一緒に考えて下さった方、
本当に感謝いたします。ありがとう。

◆◆
【略歴や自己紹介など】

構成作家/ライター/エッセイスト、
Momoこと中村桃子(桃花舞台)と申します。

旅芝居(大衆演劇)や、
今はストリップ🦋♥とストリップ劇場に魅了される物書きです。

普段はラジオ番組構成や資料やCM書き、
各種文章やキャッチコピーなど、やっています。

劇場が好き。人間に興味が尽きません。

舞台鑑賞(歌舞伎、ミュージカル、新感線、小劇場、演芸、プロレス)と、
学生時代の劇団活動(作・演出/制作/役者)、
本を読むことと書くことで生きてきました。

某劇団の音楽監督、
亡き関西の喜劇作家、
大阪を愛するエッセイストに師事し、
大阪の制作会社兼広告代理店勤務を経て、フリー。
lifeworkたる原稿企画(書籍化)2本を進め中。
その顔見世と筋トレを兼ねての1日1色々note「桃花舞台」を更新中。
【Twitter】【Instagram】 など、各種フォローも、とてもうれしいです。

詳しいプロフィールや経歴やご挨拶は以下のBlogのトップページから。
ご連絡やお仕事の御依頼はこちらからもしくはDMでもお気軽にどうぞ。
めっちゃ、どうぞ。

Webマガジン「Stay Salty」Vol.33巻頭に自己紹介エッセイを寄稿しました。

12月Vol.34からは不定期コラムコーナー「DAYS」も書かせていただいています。

東京・湯島の本屋「出発点」では2箱古本屋もやっています。
営業日と時間は「出発点」のXをご参照ください。
ぜひぜひ遊びに来て下さい!  自己紹介の手書きペーパーもあり!

読書にまつわるエッセイ集(ZINE)、
tabistorybooks『本と旅する』もお店と通販で取り扱い中。

旅と思索社様のWebマガジン「tabistory」では2種類の連載をしています。
酒場話「心はだか、ぴったんこ」(現在19話)と
大事な場所の話「Home」(現在、番外編を入れて4話)。

noteは「ほぼ1日1エッセイ」、6つのマガジンにわけてまとめています。

旅芝居・大衆演劇関係では各種ライティング業をずっとやってきました。
文、キャッチコピー、映像などの企画・構成、各種文、台本、
役者絡みの代筆から、DVDパッケージのキャッチコピーや文。
担当していたDVD付マガジン『演劇の友』は休刊ですが、
YouTubeちゃんねるで過去映像が公開中です。
こちらのバックナンバーも、さきほどの「出発点」さんに置いていますよ。

あなたとご縁がありますように。今後ともどうぞよろしくお願いします。

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