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日々日々

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1日(なるべく?)1エッセイ。思うこと考えることを綴っています
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記事一覧

踊ってゆこう 気持ちとかたち

音頭とか祭とかの流れか、 夏のこの時期、 浮かれることばかりじゃなく皆で想いを馳せ考えたい時期だからか、 昨日今日『ホライズン・マーチ』(ソウル・フラワー・ユニオン)が ずっと頭の中を流れていた。 尊敬する劇作家がよく舞台で使っていた楽団の歌だ。 ふとしたときに思い出すのはやはりこのリズムだからかもしれない。 自身のルーツを通して、 わかりあえない悲しみと可笑しさとでも希望を描いていたそのひとは、 劇団を解散した後も、 若い人たちと共にこの国と自身の国で舞台から想いを伝え続

バカサバイバー 櫓とあの階段

祭りの櫓に上って踊ることを望む人を 「ヤグラー」「ヤグリスト」と呼ぶこともあるらしい。 櫓はお立ち台文化の元祖だと考えられる。 とは、昨日書いた話の中でも触れた 「盆オドラー」「盆バサダー」さんのとてもいい本で知った。 (『東京盆踊り天国 踊る・めぐる・楽しむ』 佐藤智彦 山と渓谷社 2022) 「ほぉー」「ほほぉー」ってなって、でも、そっから忘れていた。 せやのに、のに、 今日用事に向かいながら歩いていたら「バカ段」のことを思い出した。 バカ段? 馬鹿段? 文字にしたらどっ

きちんと、丁寧に しっかり

きちんと、丁寧。 大平一枝さんが聞き、書かれる人の話、いや人と話、 そして捉え方書き方にいつもじんわりじっくりと“人間”を感じさせられる。 「市井の生活者を描くルポルタージュ、失くしたくないもの・コト・価値観をテーマにしたエッセイを執筆」 改めて読んだプロフィールにもじんわりひたひたと込み上げてくるものがある。 人間は、苦しい。でも愛しい。愛しいのだ。 そう思いたいし思うのだ。思いにくいことばかりだからこそ。 きちんと、丁寧な筆に思わされる。 きちんと、丁寧な筆がおだやかに

うそとほんとと好きと嫌いとサイコロふたつ

その日芝居小屋で耳にしたピストル歌う『落陽』がよかった。 嫌いな役者が踊っていた。 竹原ピストルの歌は面倒臭い辛気臭い押し付けがましい嫌いじゃない。 でもこういうひとを神格化するまわりは嫌いだ。 気持ちはわからなくないがそういうのは気持ち悪い。 落陽。拓郎。ピストル。お腹いっぱいやな。 拓郎。岡本まさみ。古い。けど、時代など関係なしに中身は届く。 物事を意味だけで判断するのは愚行だと決めつける人たちが居る。 何故なんだろう。それもその人の捉え方だ考え方だ。 歌は歌

花火と場所 祭は日々の中にある

夜空にドンっと打ちあがったときにあなたの居る場所はどこだろうわたしの居る場所はどこだろう。 花火のシーズン、祭りのシーズンである。 今日は淀川花火だ。 正式名称はなにわ淀川花火大会。 大阪で開催される花火大会の中でも結構ビッグかつ皆が注目するやつである。 そう遠くはない地域に住む者にとっては 「見に行きます?」なんて挨拶がわりになったりもする。 昨年チャリを走らせてちょっとええスポットを見つけたので今年も狙っていた。 だがどうも今年はばたばたしていて見られそうにない。 だ

とても、の話 「好き」の力

日々の中で例えば誰かが想いや気持ちを込めて書いた文を読むととても力をもらう。 好きな作家や書き手の本などを読むことなどは勿論だが、 誰かが自分のアカウントなどで例えば好きなものやことについて綴る語るものにも、とても。 そこには色気のようなもの、つまり人間力や人間が滲み漏れてくるような気もして、 いつも知るそのひとの深いところに触れたような気持ちと、 いつも知るのに知らない深いところにも触れられたような気持ちにもなり、 尊敬と共に、また会ったとき会えたときに話そう話したい会

「素敵」と「切り取り」 今日も素敵な1日を

「皆様にとって素敵な一日になりますように」 ある日地下鉄御堂筋線の朝の電車に乗っていたら車内アナウンスで流れてきた。 なんやねん。 行く度にガリバー旅行記みたいな気分になる某大型量販店でも 同じようなこと言う店員さんが居たことを思い出した。 「今日も素敵な一日をお過ごしください」 このときは、このときも、帰りのチャリを漕ぎながらずっとめっちゃ考えた。 どういう意味やねん。 そもそも素敵ってなんやねん。 この言葉って勿論いい意味。 でも広すぎる言葉やなあと思うことも

愛と太陽 日常の中の訳わからんものはいつも

それはいつもそこにあるのかも。 ただ皆が素通りするだけで。 最初は気にしても次第にあたりまえというか気にも止めないようになれどもそれでも。 すこし離れるが遠いわけではない場所には有名な“太陽”がある。 こちらには有名だからか皆が押し寄せる。 でもすこし離れたところにあるものを知る人はそう多くはないようでいつも誰もいない。ほぼ一対一で向き合うことになる。 訳わかんなくてこわくてキモくもあり得体が知れなくもあり、 でもでもとにかくすごく伝わるものというかすごいことやものであり

清濁併呑とか正しさとかその中でも「ぜったい」なこととか

清濁併呑という言葉を自分で使うことがあまり好きではない。 なんだかそれは言えない言い切れないことや言い切ってはいけないかもしれないことを自分の中で言いきれたような感がするというか、そんな気になりもするから。 でも、答えを一方的に「こう!」と決めつけ押し付けられることは、も、本当に好きではない。違和感を覚える。時にこわさも思う。 ほなどうやねんどないやねん。 だからやはり「一緒に考えていきましょう」なんじゃないかと常々思っている逃げや日和見ではなく。 これもなんかずるい

ご飯を食べる その2

また振り返りになってしまうのだけれど、貼っておきたくなった。 またまたドラマ『生きるとか死ぬとか父親とか』を思い出して、 仕事のBGMがわりに観たりもしているからかもしれない。 ジェーン・スーの言うことや書くことは時に「んー?」にはなったりもする。 (でも結構読んでる) ヒグチアイの歌はいいなと思いながらも時にクドいというかあざといなぁにもなる。 (でもこの曲はすげえと思うジワッとくる) オジサン役者好きなくせに國村準はなぜかあんまりそんなに刺さらず「んー?」が多い。 (で

潜るなり泳ぐなり

知らない人によく話しかけられる。 当たり前というか誰でもあることだと思っていた。 どうやらそうでもないらしい。 この癖(?)故にいろいろ巻き込まれたりもしてこなくはなかった。 全部(私的には)笑い話である。人見知りなのに! 何年も何年も前からの芝居仲間は言う。 「ないで普通そんなん。いっつも誰かに話しかけられてるやん」 そうかなあ。 別の観劇仲間にも言われた。 「なんかめっちゃ仲良くなってる知らんおじさんと」 なってはいない。 アホっぽくて隙が多いからだろう。自覚はしている。

いい日

きのう昼走って駆け込み「ちょっとだけ休憩を」と思った出先のカフェで、 よし一息つけたと立ち上がろうとしたら隣の席に年配の上品なご婦人が座られた。 目が合ったのでお互いどちらからともなく「ふふふ。どうも」なんて笑い合う。 ふと見ると。 彼女の羽織っておられたカーディガンの下のTシャツの柄がE.T.だった。 自転車で月夜を飛ぶあのシーン。 あの夜空の色。 自転車の2人。 いや、2人という云い方は正しいかわからへんが。 思った。 ああなんか人間ってええな本当にええね

うつくしく、やさしく、おろかなり

朝、トレンドになぜか杉浦日向子の名前があがっていて、「わぁ」とか「ほぉ」とか「あ」、つぶやきたくなった。 江戸風俗評論家で、漫画家で、エッセイストで、 はやくに「隠居」をされ、はやくに亡くなられた大好きで憧れの文筆家。 以前関わった某演芸評論家が別の人に「この人は、杉浦日向子的ところがある人だから」って言って下さった時、ほんとにうれしかったことなどもあったが、おこがましすぎるすぎまくる。 江戸の漫画を描かれ、江戸の風俗を伝えておられた。 が、書かれる描かれることも

4年前の記事からの芝居小屋と私と書くことと

4年前に書いた自己紹介みたいな記事を読み返したら面白かったというか 「ああ、わたし(わし)やなあ」と笑って、 笑いながら拳を握ってなんだかアツくなったので載せます。 よければお付き合いいただけたら嬉しいです。 ここでは、旅芝居・大衆演劇という風に(切り口)書いているけれど、 旅芝居・大衆演劇はいつも言うが〝おおきなものいろんなものの縮図〟だと思っていて。 昨日の今日というか社会や人間を皆が考えたり考えたりまた考えたりする昨今。 個人的にもちょっといろいろばたばたと