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「混迷の2020年代カルチャー」を見通すための必読書『2010s』

予想だにしないスタートとなった2020年代。

いつ、どのようにして収束するのか、まだ全く先が見えてきませんが、
ある程度落ち着いた後にも、私たちの生活に大きな影響を及ぼし続けることはまず間違いないでしょう。

社会、政治、経済はもちろんのこと、
映画、音楽、文学、漫画、アート等々、多くのカルチャーにも多大なる変革をもたらす可能性はかなり高いと考えられます。

暗い気分が湧いてきがちな日々だからこそ、
この先の文化、エンタメ、物語はどのように変わっていくのだろう…
と思考を巡らすには絶好のタイミングでもあると思います。


その際に、アメリカのカルチャーが、2010年代において、どのように進化していったのかを理解しておくことは、「この先に起こりうること」を見通す大いなる助けとなるはずです。

<政治や社会情勢とも呼応しながら、遥かな高みへと到達した>のが、アメリカの2010年代ポップ・カルチャーだからです。


その際に非常に役立つのが、宇野維正さんと田中宗一郎さんの著書『2010s』です。

新潮社っぽくない装丁も絶妙です。

■激しくハイコンテクスト化した2010年代カルチャー

amazonの内容紹介は以下の通り。

ポップ・カルチャーに何が起きたのか――。
Lady Gaga, Rap Music, Spotify, Netflix, Marvel, Game of Thrones...
世界を一変させた〝黄金の10年〟を総括!

 誰がインディロックを殺したのか?
ラップミュージックはいかにして世界を制覇したのか?
ストリーミング・サービスの革命――スポティファイとネットフリックス、
華麗に2010年代の幕を閉じた、社会を映す鏡としてのマーベル映画、
「物語の時代」を牽引した『ゲーム・オブ・スローンズ』……

政治や社会情勢とも呼応しながら、遥かな高みへと到達した2010年代のポップ・カルチャー。

その進化と変容を、それぞれのフィールドで見続けてきた2人が、「黄金の10年」とその時代精神について徹底討論。
日本の文化受容に警鐘を鳴らし、来る2020年代を展望する、過激で濃厚なポップ・カルチャー論。

この文章を読んだ瞬間に私は「読むこと決定!」でしたが、
その期待に十分過ぎるほど応えてくれる一冊でした。


本書の「はじめに」では、以下のように語られています。

2010年代のポップ・カルチャーを規定する大きな特徴は、音楽も映画もテレビシリーズもそのレファレンスが歴史の連続性だけではなく、それぞれのアートフォームやジャンルを横断して縦横無尽に引用や言及が張り巡らされて、激しくハイコンテクスト化していることだ。

2020年代は、政治も社会も経済も文化も2010年代とは比較にならないほど激しく、互いに影響を及ぼしあっていくことでしょう。

だからこそ、2010年代の文化はどのように形作られてきたのか、
この本で理解しておくことが、まさに今、重要だと思います。


ただし、私自身、この本の内容全てを十分に理解できているとは言い難いのが正直なところです。登場するミュージシャン、映画作品、俳優等々について、あまりに知識が不足しているからです。

そのため、他の方がこの本について記している記事から引用しつつ、
私のコメントを付記して、理解をより深めていく、という記事構成にしたいと思います。

■見事な図解で『2010s』の概要がつかめる

この本の全体像については、ポールさんがしっかりとまとめられています。特に図解が実に見事です。副読資料として活用するのもおすすめです。

本を読んで、理解できないことを、嬉しく思ったのは久しぶりだった。
「これを読んだことで世界の見え方が変わる」という体験をして、嬉しくなった。

すこぶる同感です。

「十分に理解できないけど、なんだか重要そうなことが書かれている気がする」
→ そこで挙げられているアーティストや、曲、作品に触れてみる。
→ 該当箇所を再読する。
→ 徐々に理解できてくる。
→ もう一度、曲、作品に触れてみる。
→ 違う視点で味わえ、新しい景色が広がってくる。

そんなかたちで何度も往復することで、理解が深まってくる一冊だと感じています。

●第1章 音楽メディア環境の大きな変化

最近はコミュニティと呼ばれるその集まりの熱が、アーティスト側にフィードバックされていくループが出来上がった。

こうした現象は、私も仕事で実感することです。

以前の記事 「コンテンツが生きている状態」を作ろう:必読の一冊『オタク経済圏創世記』 に記した内容にも通ずるところがあるように感じます。

●第2章 ラップミュージックが中心的価値になった

音楽カルチャーであると同時に、メディアの技術革新であり、ビジネスの産業革新であり、マイノリティの政治要請であるという。
その文脈をすべて背負ったのがビリー・アイリッシュである、という結論めいたものに、なぜあの女の子がここまで売れているのかについて、多少の納得感を得る。

私もこの本を読んで、やっとビリー・アイリッシュが、なぜあそこまで圧倒的な支持を集めているのか、ようやく理解できたように感じています。

●第4章 Netflix

長期シリーズならではの同時代性は、映画とは別の興奮を産むことになった。いつ見てもいいという普遍性を捨てる変わりに、今見ることに意味があるというリアルタイム性を獲得した。

本の中で、このことを述べているのは以下の箇所です。

<何年にもわたってシリーズが続いていくテレビシリーズの場合は、
シリーズを通して時代の変化に逐次対応することで、
時代の変化そのものをキャプチャーすることができる>

日本でこれにあたるのは何でしょうか。
「こち亀」でしょうか? 「ジョジョ」でしょうか?

●第5章 MARVEL

読み始める際、一番気になっていた章です。

マルチバースとは、並行する複数の世界を描きながらも、登場人物や世界観には一定の統一性があり、複数作品が連なって「ユニバース」を形成している様式のこと。
ひとつの映画に時代性を詰め込むと、ともすれば普遍性が失われてしまうが、連続する作品シリーズとして位置付けることで、個別の作品性を優先させながらも、時代の伏線を仕込むことができる。
「アメリカ人ってヒーローが好きだよな」というシンプルな理解だったのだが、「退役軍人」「マイノリティ」「政府と企業」「格差」のような文脈を背負った上での代弁者という意味においてのヒーローであったとは、思いもしなかった。

本書を読んでから映画『ブラックパンサー』を観ると、
<ブラック・コミュニティ内部でも世代の違いや社会的な地位格差が生まれたことで、
コミュニティ全体が文壇の可能性を帯びることになった、
そうした由々しき問題をきちんと指摘していた>

ということが、よく理解できます。

これに匹敵できる日本のカルチャーはなんだろうか。ゲームとアニメだけなのだろうか。

上記の「これ」は、
政治とのアナロジーがふんだんに散りばめられていながら、
エンターテインメント性を失わないMARVELやディズニーの作品を指しています。

このポールさんの意見には大いに異論があります。

日本において、その役割を果たせている代表格は、間違いなく漫画でしょう!

2020年のこの状況を、作品にどのように反映させていくか、
虎視眈々と考えているクリエイター、プロデューサー、編集者などはたくさんいると思いますが、まず最初に作品として結実するのは、きっと漫画において、だと思います。

●第6章 「物語」が「形式」を凌駕した

重要なのは「ファンの力が暴走する」という視点。
過度なコンプライアンスなど、国内でも理解しやすい傾向だが、
北米においては「ストーリーを変えろ」「スタッフを変えろ」「出演者を変えろ」といった暴言が出現し、
それによって現実が歪められてしまうという現象が起きている。
「トキシック・ファンダム」とも呼ばれるこの盛り上がりが最高潮を迎えてしまったのが『ゲーム・オブ・スローンズ』の最終章。

この箇所は、正直、少し恐怖を感じました。

この先、日本のポップカルチャーにおいても、
「ファンの力が暴走する」事態は増えてくるように思います。

■ポップ・カルチャーと社会が密接に結びついているのは、もはや前提

そして、音楽ジャーナリスト・柴 那典さんによる『2010s』についての記事も非常に得るところが多いです。

何より重要なポイントは、それらの作品が社会情勢や政治の潮流と不可分に結びついていたこと。2010年代とは「人々の価値観や意識がドラスティックに変わっていった10年」であり、ポップ・カルチャーは、そうしたディケイドにおける「時代の基調音」になっていたのだ。
ただし。日本に暮らしていたら、そのことには、なかなか気付きにくいかもしれない。
ポップ・カルチャーがいかに政治や社会と密接に絡み合っているか、気付きにくい。

はい。非常に気付きにくいです。気付かせようともしていません。

私は2014年、UCLAの映画プロデューサー育成コースに通ってロサンゼルスに3ヶ月ほど滞在していました。その時、「いかに日本の文化が社会と乖離しているか」ということを痛感した記憶があります。

LAはカフェ一つとっても、文化の発生・熟成と深く結びついていることが感じられるのです。日本のカフェは、どこまで行っても、せいぜい観光名所です。

日本のそんな状況を作っている理由が以下になります。

ここ10数年で日本のマスメディアの海外文化への興味はかなり減退している。グラミー賞やアカデミー賞などの報じられ方を見れば明らかだ。
「日本人が海外の権威にどう評価されたか」という話題には必要以上にフォーカスが当たる一方で、「受賞作は時代をどう象徴していたのか」という肝心の問題については、見過ごされることがほとんどである。

ストリーミング全盛の時代において、
嵐が2019年世界で最も売れたCDアルバム!
と喜んでいるニュースを見ると切なくなります…

カルチャー全般をいわゆる「エンタメ」や「サブカル」として「政治・社会」と別カテゴリで取り扱うメディアや受け手の態度が浸透しきっているからだろう。

つい最近も、漫画家の浦沢直樹さんが描いた安倍首相のイラストが批判を浴びていました。反論する必要すらない浅い批判なのですが、そういう状況を作った一因はメディアにもあるのでしょう。

しかし、海外においては、ポップ・カルチャーと社会が密接に結びついているのは、もはや前提と言っていい。
しかも、メインストリームのメガヒット作であればあるほど、ジャーナリスティックに社会の動きを反映するようになったのが、2010年代という時代である。
ポップ・カルチャーをより深く、より手応えのあるものとして楽しむには、同時代の社会を知る必要がある。逆に言うと、ポップ・カルチャーを深く知ることで、社会の動きのダイナミズムを掴むことができる。

2020年代は、さすがに日本も、ポップカルチャーが政治や社会をスルーし続けるわけにはいかなくなると思います。


…と書いてみたのですが、同時に「いや、そうでもないかも…」とも思ったりしています。

とりわけアニメは、政治や社会から乖離しているがゆえに「日本的」というレーベルを海外で獲得できたところもあるように思います。


上にも記したことにも通じますが、
この点においてもやはり漫画には、一筋の希望の光があるように感じます。

さらに踏み込んで考えると「2010年代は“スマート”と“ソーシャル”の意味が上書きされた時代だった」と言うことができる。

2010年代の“ソーシャル”は「SNS」や「ソーシャルメディア」の“ソーシャル”だ。すなわち自己顕示欲や個人の影響力と密接に結びついた意味が、そこに加わった。
注目を集めることが利益につながる「アテンション・エコノミー」という言葉があるとおり、新しい意味の”ソーシャル”は、露骨に資本主義の領域の言葉となった。
その意味において、人々は格段に“ソーシャル”になった。

実に興味深い見解です。

優れた本は、卓越した書評を産む土壌となる、
典型のように感じました。

同書には「2010年代は2008年に始まった」と書かれている。本稿でも別の角度からそのことを論じている。
それを踏まえるならば、きっと2020年代は「2017〜2018年にはすでに始まっていた」と後に語られることになるだろう。予兆となる出来事はいくつもある。

ここは納得な反面、まさかの2020年代スタートとなった今の状況を踏まえると、
2020年代は「2017〜2018年とは全く別物になった」
と後に語られる可能性も十分にあると思います。


東京の感染者が日に日に増えていく2020年3月末〜4月初旬に、この文章を書いています。

おそらく世界中の誰一人として予想もしてなかったかたちで始まった2020年代。

そんなときだからこそ、この先の10年はどのようになっていくのか、
その中で自分は、どのようなスタンスで、社会とどう接していくのか、
熟考することが必要だと思っています。

2030年に発刊される『2020s』を想像しながら、
この良書を、今こそ読んでみることを強くおすすめします。

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