本能寺の変1582 重要 ◎第73話 天正十年六月二日、明智光秀が織田信長を討った。その時、秀吉は備中高松で毛利と対峙、徳川家康は堺から京都へ向かっていた。甲斐の武田は消滅した。日本は戦国時代、世界は大航海時代。時は今。歴史の謎。その原因・動機を究明する。『光秀記』
重要 ◎第73話
11光秀の年齢 3光秀と土岐氏 2/2
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72 ◎ 73 ◎
*以下は、重要ヶ所◎のみ抜粋したものです。
*加筆修正
◎本能寺の変と頼純殺害の年から。
天正十年1582と天文十六年1547。
本能寺の変と頼純殺害の年。
そこから、光秀の生年を推測する。
◎五十歳とした場合。
本能寺の変の時1582、光秀の年齢が五十歳だったとすれば、
光秀は、天文二年1533の生れとなり、
天文十六年1547は、十四歳になる。
これでは、家臣として若すぎる。
故に、これは適合しない。
◎五十五歳とした場合
光秀は、享禄元年1528の生れとなり、
天文十六年は、二十歳。
戦力的に見て、家臣としては、この辺りが下限になるではなかろうか。
とすれば、弘治年間1555~1557、
光秀が妻木氏を娶った頃は、二十八~三十歳となる。
そして、永禄十一年1568、信長に出会った頃は、四十一歳となる。
◎六十歳とした場合
大永三年1523の生れとなり、
天文十六年は、二十五歳。
もう、立派な武士である。
とすれば、弘治年間は、三十三~三十五歳。
当時としては、晩婚である。
そして、永禄十一年は、四十六歳。
まだまだ、これからと言える年頃。
これも、該当するだろう。
ならば、その上限とは、・・・・・。
◎永禄十一年1568、信長は三十五歳。
◎光秀は、信長の目に止まった。
その様な年齢だった。
⇒ 次へつづく
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「本能寺の変」
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