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引き出しのお菓子箱

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つい、してしまうことって何ですか? ----------------------------------------------------- わたしのそれは、ふと思い出した昔の… もっと読む
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春の宵のハイウェイ

春の宵のハイウェイ

大抵夜は眠いのだけど、2日続けて眠気を見失っている。

この夏、物をざばざばと手放し、風通しがよくなるのが心地よく、また手放し、と断捨離がはかどっていたのだが、昨日、むかしの手帳から発見したタクシーの領収書に、ふわっと春の宵に引き戻された。

その日わたしは、京王線沿線の駅で懐かしい人たちと会っていた。平日だったが、シフト制だった当時のわたしのしごと(眼科助手)は休みで、以前バイトしていた編集プロ

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春にして君を想う

春にして君を想う

新生活に空気が揺らめく春を越え、風がみどり色に薫りはじめる今頃までの間、折に触れて思い出す人がいる。空気の膨らみ具合や、肌を撫でる風の感じなんかで。

彼女との出会いは大学に入ってすぐで、講義のいくつかが一緒だった。小柄で、ブロンドのような明るい髪は腰にかかるほど長く、くっきりとした二重が縁取る大きな瞳に、よく似合っていた。濃いアイメイクが映える、美しく、意志的な眼差し。耳にはたくさんのピアス。も

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6年前、満月の夜に

6年前、満月の夜に

次女が6歳の誕生日を迎え、もう6年も前のこと、と、褪せはじめた記憶を、静かに手繰り寄せてみる。



わたしは切迫早産体質のようで、長女の時も、次女の時も、妊娠後期は安静の日々だった。

長女の時は、盛夏を寝て過ごした。里帰りしていた実家では、午後になると母が勤めに出かけていき、ひとり寝そべり、庭の百日紅をじっと見ていた。夏の光の中では、生きとし生けるものがすべからく生をよろこんでいる。それは部

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長女の乳歯の行方

長女の乳歯の行方

「神様に会ったことってある?」と、長女に聞かれた。日曜日の夕食の最中。先に夫が「ないなぁ」と答える。「じゃあサンタさんは?」と続くその無邪気に敬意を表して、返事をする前に、まじめに記憶をさらう。

神様に会ったことはないが、神様っているのかも、と、感じることは、長く生きていると何度かあるんじゃないか、と、思っている。

記憶から掬い上げたのは、祖母との間に起きたことだ。



父方の祖母は、よく

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メロウな夜と白昼のニゲラ

メロウな夜と白昼のニゲラ

夫のライブを観に行った。まだ、結婚する前のことだったと思う。そこは、中央線の人気ある駅のうちのひとつを降りて、少し歩くと行き着く、小さなバーのような、隠れ家的スポット。にして、毎夜ジャズの生演奏がブッキングされている、という、ちょっと熱いお店だ。

その夜わたしは、たまに演奏させてもらうこともあった馴染みのそのお店で、一人カウンターにて、夫(当時はまだ彼氏)の演奏を聴いていた。ジャズ(の中でも古い

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梅の頃、包み紙の匂いを思う

梅の頃、包み紙の匂いを思う

母方の祖母は、ウメという名前だった。梅の季節に生まれたから、という話だったけれど、そういえば、わたしは誕生日を知らない。毎年、梅の頃になると、今時分なのかなぁと顔が浮かぶ。祖母の季節。

祖母は同じ市内に住んでいて、よくバスに乗って泊まりに来てくれた。
手土産は決まって、おだんごと豆大福。町の中心部にある神社の、向かいの和菓子屋さんのもので、バスを乗り継ぐ時に買うのだと教えてくれた。だんごは、餡子

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もうこれ以上は

もうこれ以上は

「もうこれ以上は頑張れない、という一線は、頑張っているその人にしか、決められないからね」

それに続いたのは、「だから自信を持っていいんだよ」だったか、「だから自分で決めていいんだよ」だったか。涙が溢れ出るのをこらえるので精いっぱいで、よく覚えていない。

当時、大学四年生のわたしは、惑っていた。就活もそろそろ終わりか、という初夏。内定が出たのは、第一希望の出版業界でなはく、第二希望の医療業界だっ

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接触

接触

記憶がかなり曖昧なのだけれど、そのお題は確か「接触」について思うこと、だったような気がする。空気の冷たい土曜日。次女を幼稚園に送る道すがら、思い返していたのは、通っていた大学の入試で書いた小論文のことだった。

受験のために通っていた小論文のクラスで、塾長は、「シュギシュチョー」という言葉を連呼していた。小論文を書くときに一番大事なのは、自分の主義主張、ということ。あの頃のわたしには一番無かったも

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冬の庭

冬の庭

大寒をむかえて寒さが鋭く深くなってきた。
今暮らしている東京に大学入試のために出てきた17歳の冬、空気が故郷のそれと異質で、あたかく丸いので驚いた。その翌日に受けた第一希望は落としたが、東京の別の大学に通うことが決まり、そののち割にあっという間に、あの丸みを体で選り分けることはできなくなってしまったのだけれど。

それでも、寒く乾燥した空気が鼻先を冷たくすると、思い出すのは故郷のこと。実家の庭だ

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先生のこと

先生のこと

先生との出会いは、診察室だった。

わたしは大学を卒業後、眼科ばかりを運営する医療法人に入り、少しの研修期間の後、とあるクリニックに配属された。ベッドタウンにあるそのクリニックは、多い時で一日に200人ほどの人が来院する、とりわけ忙しい現場、と、研修中から聞かされていた。

眼科は、問診、検査、診察、会計、それぞれに待ち時間が発生することもあって、患者さんは待ち時間に過敏になる。いつも混んでいる現

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引き出しのお菓子箱

引き出しのお菓子箱

それは、紙製で、緑茶の茶葉のような深い渋い緑色をしていて、ひらくと内側にはルネッサンス絵画のような絵がかいてあったような気がする。手に取る厚みも、重さも、かたさも、ちゃんと覚えているのに、もう何処かに行ってしまった。

中にいれてあったのは、綺麗な貝殻や珊瑚のカケラ。海のない土地に暮らしていたので、どういう経緯でそこにあったのかは、現物のない今、知る由もない。たまに取り出して眺めては、うっとりと心

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