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接触

記憶がかなり曖昧なのだけれど、そのお題は確か「接触」について思うこと、だったような気がする。空気の冷たい土曜日。次女を幼稚園に送る道すがら、思い返していたのは、通っていた大学の入試で書いた小論文のことだった。

受験のために通っていた小論文のクラスで、塾長は、「シュギシュチョー」という言葉を連呼していた。小論文を書くときに一番大事なのは、自分の主義主張、ということ。あの頃のわたしには一番無かったものなのではないか…シュギシュチョー。「なるほどなぁ、それもそうね、でもそちらの意見もごもっともだ、はて…わたしの意見は?」みたいなことは、実は今でもよく起こりうるから、経験の浅さだけに起因したものでなくて、性分なのかもしれない。とにかく、小論文を書く、は、自分の内側に思いを凝らす、という特訓であったような記憶。そしてそのことは、いま文章を書いて自分を整える、ことの核にもなっている。受験勉強侮りがたし。

さて、入試のお題、「接触」。

"人間の内面には、今までの経験によって形作られた宇宙がある。人と人が接触するとき、一人一人の内なる宇宙もまた、出会う。わたしは、人との出会いの経験の中に、それを得てきたし、その深淵に臨むような底知れない感覚を愛している。それが、わたしにとっての、接触。"

限られた時間の中で高揚しながら(何か間違えば受かるかも、というような記念に近い受験だった)書いたのは、そんな内容だったと思う。

正直、書いていて楽しかった。でも、文字数の制限がある中で、ぴったりみっちり書くべし(字数の足りないものは読んですらもらえないこともあるので)、と散々言われてきたのに、数行を残して言いたいことを言い切ってしまった(と同時に恐らく時間も尽きた)。最低限の文字数には至っていたが、塾長には「あちゃー」と言われ、達成感と裏腹に、記念受験の結果は望み薄だった。が、しかし、電話で問い合わせた結果は合格だった。通知が届くまで、かなり信じがたくいた。

晴れて入学してから、教育学だか社会学だかの講義中、教授が「あの小論文はね、全部読んでますよ。僕ら全部読むんですよ。だからね、あなた達はあの時書いた文章で選ばれてるんですよ。自信を持っていい。」と、熱心に話してくれた。まだ自分の専門を選ばずに様々の講義をとっていた一年生のあの頃、大学生になれたという漠としたうわつきの下には、受験の努力や苦労がしかと残存していたし、何かの間違いではという戸惑いも薄くしつこくあったものだから、しみじみ嬉しかった。読んでくれたんだ。

実は、例の深淵に臨む感を久々に味わったのだ。宇宙を内包する身体が用いる言葉や視線や表情で、宇宙と宇宙は交感しあう。ある気持ちよく晴れた朝に、偶然の祝福として得た、「接触」。存在から放たれるいい匂いを嗅ぎ取り、惹かれる、のは、すごく野生的で、我が身の動物としての生を強く感じた。そしてそれは生きる意欲みたいなものにも通じている、という確かな体感が、身の内に続いている。背筋の伸びるような、眩しさで。

「接触」は、これほどに、人を生かすものだったのだな。多感なあの頃のわたしは、むしろ今よりそれをよく知っていたのかもしれない。色々の制約が付きまとうこの頃だけれど、この喜びはやはり手放さずに在りたい、と、思いを深める。留意は添えつつ。

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