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メロウな夜と白昼のニゲラ

夫のライブを観に行った。まだ、結婚する前のことだったと思う。そこは、中央線の人気ある駅のうちのひとつを降りて、少し歩くと行き着く、小さなバーのような、隠れ家的スポット。にして、毎夜ジャズの生演奏がブッキングされている、という、ちょっと熱いお店だ。

その夜わたしは、たまに演奏させてもらうこともあった馴染みのそのお店で、一人カウンターにて、夫(当時はまだ彼氏)の演奏を聴いていた。ジャズ(の中でも古いものだったが)は、大学のサークル時代からお互いにやっていて、わざわざミュージックチャージを払って相手の演奏を聴くことは、多くはなかったから、珍しく、と、付け加えねばならない。

カウンターで、ひとつ席を空け、隣り合わせたのが、Kさんだった。当時、母より少し上くらいだったのだろうか。小柄で、美人で、控えめなのに凛とした佇まいが魅力的だった。駅の反対側で、お花屋さんを営んでいるのだという。

広くはない店内が、小さくはないボリュームの演奏で満たされる中、ぽつりぽつりと、ご主人の話がはじまり、きく。このバンドのリーダーと一緒にバンドをやっていたこと。熱心なレコードコレクターで大体のレコードは聴く用と保存用の二枚ずつ所有していたこと。大切に大切にとうとう聴かずにおいた一枚は、葬儀で流したこと。など。

お酒と、薄暗がりと、すぐそこで奏でられている生きた音楽が、初対面同士としては幾分立ち入った話を、するすると話せるように、また、聞けるように、していた。お互いがバンドの身内みたいな連帯感も、うまく作用したかもしれない。

仕方のない人よね、と言いながら、まなざしは慈愛に満ちて、わたしには到底見えそうもない虚空の何かを抱きとめていた。何か圧倒的なもの、が、美しい横顔を更に輝かせている。最愛の人を亡くしてなお(その哀しみは今のわたしにも、ましてや当時のわたしにも、想像さえ難しい)、彼女の内に、損なわれないものが、燦然と灯っていた。
Kさんのお店の名は、かつてご主人が贈ってくれたものだという。

その夜、もう音を奏でることは叶わないKさんのご主人を思いながら、わたしはそのうち結婚するかもしれない相手の奏でる音を、浴びていた。
在るものと、無いもの。その境界線は決定的に引かれているはずなのに、もやもやとしたあわいがあるようにも感じられて、つかみどころのない心持ちで、浴び続けた。戸惑い、のようなものの只中にありながら、不思議とあたたかさに守られ、更かした夜だった。

その後、約束通りに訪問したKさんのお店で、わたしはニゲラを気に入り、買い求めた。淡い青色の、風にそよそよと揺れていそうな花。サボテンすら枯らしていたあの頃は、とかく花の名前に疎かった(実家の庭に咲くもの、とか、あぜ道に生えているような花、を、除いては)から、ニゲラ、と何度も口の中で唱え、覚えた。ご主人に贈られた名を掲げるお店で、お花に囲まれ、いきいきと立ち動く昼間の彼女も、とても美しかった。

わたしのライブを報せれば仕事の後で聴きにきてくれ、近くの行きつけのご飯やさんに連れて行ってもらったり、駅でばったり出会ったり、懐かしいあのあたりで、いくつかの夜をご一緒した。そうこうするうち、わたしは、あの夜に結婚するかもと思っていた相手と、果たして結婚した。長女や次女を連れて訪問した記憶は、もう随分と遠い。

印象深いのは、やはり、出会った夜の輝く横顔。この記事を書きながら、ニゲラの花言葉『夢で逢えたら』に出会う。あの夜、在るもの、無いもの、のあわいを繋いでいた、メロウなあたたかさにも通じるようで、嬉しくなる。

近々、お店にお邪魔させてもらおう。と、決める。この数年で、植物とは随分近しくなった。可憐な見た目に反して低く深い声は、『まよちゃん、元気でしたか?』と、丁寧に、笑みを含んで言うだろう。早くも浮かれるばかりだ。

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