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気づかぬうちに失った感情のさまざま

 運動会の日の感情を覚えていますか。汗で体操服が張り付き、砂埃が舞い上がっているのを感じながら、隣のクラスの気になる男の子を目で追いかけているときの高揚感と切なさ。試験会場の寒さと、温かさだけではないものが詰まっているらしいカイロ。握ると指が震えた。おばあちゃんと食べた焼き芋の熱さ。時計などない時間が流れていると思った。

 時間に追われる毎日の中で、失った感情たちはいったいどこにいったのだろうか。自分の中で一大イベントであったはずの感情は探しても簡単には見つからないどこかに追いやられてしまって、普段思い出すことはない。次第に考えることといえば間近に迫ってきているタスクのことばかりになり、何よりも大事にしたかった自分だけの感情を忘れていく。

 なんとなく寂しく、アスファルトの上に立っていられない気持ちになって、映画でも見ようかと思うのだけれど、心には「映画」が蓄積されるだけ。自らの体験に基づいた記憶は蘇っては来ない。

 そんな寂しさを、あなたも味わったことがあるかもしれない。この世界には、単に情報が散り嵌められているだけではない。感情も至るところに仕掛けられている。広告を見て泣き、行動を変容する。映画を観て、慈悲深い気分になる。週刊誌を読んで腹を立てる。それだけではない。インスタを見て、焦燥感に苦しむ。通り過ぎる外車を見て、相対的な自分の金銭的価値を図る。皆が何かを消費することで成り立っている社会では、一瞬のうちにさまざまな感情を呼び起こさせる仕掛けがどんなところにでもある。

 そうやって、単独で入り込んでくる感情が、自分のアイデンティティを繋げていたはずの感情を奪っていく。街は囁く。「消費に繋がらない感情など意味はない」と。私たちは無意識のうちにそのメッセージを受け取り、大事だったはずのなにかをガラクタと勘違いして捨ててしまう。

 ここで、その感情が具体的に「何」であるかは言わない。他人から教えてもらって一瞬のうちに理解した気になるのは、やはりまやかしだからだ。元気が残っているときでかまわない。あなたが置き忘れてきた、自分を自分たらしめていた感情を、ゆっくりと思い出してほしい。

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