見出し画像

お金さえ払えば今まで積み上げてこなかった知識も経験も地位もすべて一発逆転。宗教、スピリチュアル、意識高い系、オーガニック、その他著しく費用対効果の低いものごとを提供する集団が有料で見せてくる世界は世界ではなく、ただの「ある視点」に過ぎません。

中年がコロっと宗教やスピリチュアル、意識高い系、オーガニック、その他いわゆる「著しく費用対効果の低いものごとを提供する集団」にハマるのは仕方ない。
若者のうちはまだ負けてないから大丈夫なんですよ。心が痛んでないから。でも中年になると敗北の連続なんです。負け越し。その傷口をふさいでくれるガムテープを欲してるんです。みんな。

25歳以降の人にとって所謂将来の夢の「将来」ってもう今なんだけど、子供の頃の理想の自分から著しく乖離していると、残り少ない時間で一発逆転をねらってしまいやすいんですよね。
いまさら基礎から体系的に学んだりする時間も金も知能も忍耐も無いので簡単に答えを提供してくれるナニカに逃げてしまいやすい。
特にネット上にはそういう「答え」がゴロゴロしてる。

自分の本当の能力の低さやコンプレックスと真面目に向き合ってこなかった罰ですよね。
セルフハンディキャッピングや欺瞞ではもう自分を騙せない。
自分は周りより優秀だから、やればできる子だからって言ってるうちに本当にできる子と、出来なくてもやった子、その両方にこの30年で完全に追い越された。
今は自分が最下位だという決定的事実は自分が一番解っているんです。

本当に全力でぶつかって、その結果ダメだったという経験が一度でもあると大丈夫なんですけどね。
負けた事がある人は負け方と、その時の心の処理の仕方を知ってますから。
怪我をしない転び方っていう言い方をした人が昔いて、いい喩えだなと思った。
勝ったことも負けたこともない人、勝負から逃げ続けて強いフリをしてきた人は一度も骨折したことのないプライドがずっと残ってるんです。

つけ入るスキだらけですよね。

「あとは、何もない中年にあなたは特別ですというだけ」

これに尽きる。お気をつけて。気を付けようがないけど。

セルフハンディキャッピングは「頑張ったけどダメだった」っていう結果に耐えられない貧弱な自尊心から起きる。
自分の能力に自信がないので本当はできるのに、ハンデがあったからできなかったのだという言い訳をするための自己防衛行動です。
不幸にも成功してしまった場合は困難を乗り越えてなお成功したと勝手に自己評価が高まるので振り返りも本当の成長もない。自分に対しても、成功したのは自分が優秀だからだという理由で終わってしまう。

これ繰り返してると、どんどん本当の実力と理想の自分が乖離していくんですよ。

スポーツでも遊びでも勉強でも、真面目に向き合って自分の実力を知った人はあれやらないんですよね。
自分が特別な存在(The One)ではない(One of them)という事を理解してる。
小さいころに怪我をしない転び方を知ったから、怪我をしないように転びながら成長できる。

未熟なまま大人になった人は、成長した人から自分がどう見えてるかわかっていない。
見栄張って背伸びしてそこに立っても、内心アホだと見下されてる事に気づいていない。
だって、まるでなっていないんだもん。
偽物だって一瞬でわかりますよ。

その差分を、彼らは見逃さないですよ。

「あとは、何もない中年にあなたは特別ですというだけ」

宗教に限りませんけどね。
お金さえ払えば、今まで積み上げてこなかった知識も経験も地位もすべて一発逆転。
スピリチュアル、意識高い系、オーガニック、その他いわゆる著しく費用対効果の低いものごとを提供する集団が有料で見せてくる世界は全て、ただの「ある視点」に過ぎません。

視点を変えただけで世界は変わりません。

あなたが無知で無学で無能でみじめな中年であるという事実は変わらないんです。

一発逆転はこの世には無いんですよ。

地域のコミュニティとかマンション付き合いとかそういう面倒を面倒だと拒絶していった結果、家族と職場くらいしかネットワークが無くなります。
そしてその多様性と発展性の死んだ貧弱な人間関係は些細なきっかけで簡単に崩壊します。

近所付き合い、飲み屋仲間、趣味の世界、会社の接待、親戚やきょうだい達、友達、すべて破滅を回避するための安全装置だったのに。維持するコスト(金だけじゃないですよ)が面倒になって切ってしまったらどうなります。
唯一の逃げ道だった自分の巣穴が壊れてしまったら、あとはもう居心地のいい居場所を提供してくれるなら多少のデメリットにも目を瞑るようになってしまうんですよ。

ほんと、居場所大事にしたほうがいいですよ。

個人的には宗教には肯定的です。
コミュニティの形成、道徳の形成、文化の形成、困難に打ち克つノウハウの継承という意味で。
宗教が無ければ人間は死の恐怖を克服できず、今さえよければいい、自分さえよければいいという刹那的な思考から逃れられなかったはず。当然道徳心も規律も生まなかったはず。

でも、普通の買い物や体験と同じで、そこで得られるものと支払う金が本当にバランスするかどうかよく考えたほうが良いですよね。

著しく費用対効果の低い物事だ、と考える頭があれば、ですけどね。

あなたが本当に輝ける場所が見つかると良いですね。
そんなものがあるとしたら、ですが。

「あとは、何もない中年にあなたは特別ですというだけ」

でもお金で買えるならそれはそれで幸せなのかな。
よくわかりません。

おしまい

※この先は蛇足ですが、将来の夢で職業を答えちゃうタイプだった人は本当は自分は何をしたかったのかをもう一二段深く考えるべきだったと思います。

大人に褒められるから、皆に羨ましがられるから。
他者からの評価に依存した世界を生きる人にとって職業や金は他者から評価されるため、他者より自分を大きく見せるための道具かアクセサリに過ぎません。
もし子供が大金持ちになりたいといったらその金で何がしたいの?と問うのは自然なのに、なんで同じ事をやらなかったのだろう。

何になりたいかではなく、どんな人間になりたいかを自分で考えるべきだったんです。

もしも「困っている人を救いたい」という芯があれば、医者でも警察でも会社員でも先生でも無職でも宗教家でも、
今すぐにでも、自分の死の直前でさえも、どんな状態でも人を救うことはできますよね。
方法は違えど、ゴールは同じ。どんな生き方でもそれは達せられる。

人から評価されたい、ステータスが欲しい、お金が欲しいとかそんな理由って、パトカーに乗りたいとか空を飛びたいという子供と何が違うのかな。
そうすると、残念だけどその夢は永遠に敵わないし、もし叶えたとしてもそんな芯では負担や責任とバランスできずに続かないんですよ。
職業というのはただの状態であって、自分の芯を通すための手段でしかない。

その芯がなんなのか、深く考えてほしいなと思う。

それは例えば、挫折を味わったときとか、怪我や病気に倒れたときとか、立ち止まったときとか組織のなかで道に迷ったときとかに、自分の支えになる。

かもしれませんね。

※ちなみに指導者になって暴走するタイプの思考もこれに近い。
誰かに何かを授ける、他者に影響を与えるというのは、自分がこの世に存在した価値を最も実感するとき。
その喜びは麻薬。だから学校や少年スポーツで子供が思い通りにならないと(上達しないと)自分の価値が棄損されたと感じてキレる。
自分の優秀さの証明である子供の成績/戦績という結果を作り出せないからキレる。

結局子供や教え子というのも、彼らにとっては自分の優秀さを証明する飾り、アクセサリに過ぎない。


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?