見出し画像

【分野別音楽史】#07-2 ヨーロッパ大衆歌謡②シャンソン(フランス)

『分野別音楽史』のシリーズです。
良ければ是非シリーズ通してお読みください。

本シリーズのここまでの記事

#01-1「クラシック史」 (基本編)
#01-2「クラシック史」 (捉えなおし・前編)
#01-3「クラシック史」 (捉えなおし・中編)
#01-4「クラシック史」 (捉えなおし・後編)
#01-5 クラシックと関連したヨーロッパ音楽のもう1つの系譜
#02 「吹奏楽史」
#03-1 イギリスの大衆音楽史・ミュージックホールの系譜
#03-2 アメリカ民謡と劇場音楽・ミンストレルショーの系譜
#03-3 「ミュージカル史」
#04「映画音楽史」
#05-1「ラテン音楽史」(序論・『ハバネラ』の発生)
#05-2「ラテン音楽史」(アルゼンチン編)
#05-3「ラテン音楽史」(キューバ・カリブ海編)
#05-4「ラテン音楽史」(ブラジル編)
#06-1「ジャズ史」(草創期)
#06-2「ジャズ史」(1920~1930年代)
#06-3「ジャズ史」(1940~1950年代)
#06-4「ジャズ史」(1960年代)
#06-5「ジャズ史」(1970年代)
#06-6「ジャズ史」(1980年代)
#06-7「ジャズ史」(1990年代)
#06-8「ジャズ史」(21世紀~)
#07-1 ヨーロッパ大衆歌謡➀カンツォーネ(イタリア)

ヨーロッパ大陸の歌謡史として、前回はイタリアのカンツォーネについてオペラ史の復習と併せて見ていきましたが、今回はフランスのシャンソンについてです。

そもそも「カンツォーネ」も「シャンソン」も語源は同じであり、単に「歌」を示す言葉です。フランスでは歌全般を指し、特定ジャンルを指すものではないようですが、ここでは中世~近世の声楽曲から、現在狭義の「シャンソン」として知られている「戦前・戦後のフランスの大衆流行曲」といった範囲を調べていきたいと思います。

また、前回、カンツォーネとともにオペラの流れも並行して見たように、クラシック史の流れも復習しながらやっていきたいと思います。


過去記事には クラシック史とポピュラー史を一つにつなげた図解年表をPDFで配布していたり、ジャンルごとではなくジャンルを横断して同時代ごとに記事を書いた「メタ音楽史」の記事シリーズなどもあるので、そちらも良ければチェックしてみてくださいね。



◉中世~近世のフランス歌唱のあゆみ

前回も触れたように、中世ヨーロッパには聖歌に加えて、トルバドゥール(イタリア地域)、トルヴェール(フランス地域)、ミンネザング(ドイツ地域)といった世俗歌が登場。この「トルヴェール」や、クラシック史上でルーツとされている「グレゴリオ聖歌」の系譜にある中世~ルネサンス期のフランス歌唱までも合わせて、広義では「シャンソン」と呼ばれるようです。

その後、イタリアオペラの誕生した16世紀末頃、近世フランス王国には新たな王朝としてブルボン朝が発生し、王の威光と貴族の華やかな文化が特徴的な絶対王政の時期に入っていきます。イタリアから受け継がれた貴族的で煌びやかな文化の影響下にある美術、建築、音楽などがバロックと呼ばれました。

ルイ13世~14世の頃に絶対王政が確立し、その権力をより強固にするため、ルイ14世はヴェルサイユ宮殿を築きます。ここに王を中心とした「宮廷社会」が成立します。毎日のように祝祭が行われ、花火大会、馬上試合、舞踏会や晩餐会などが花開きました。これらの隅々を彩ったのがバロック音楽です。

17世紀前半はバレエがたしなまれ、17世紀後半にかけてオペラが中心になりました。ルイ14世の宮廷音楽の実権を握っていたのがリュリで、フランスオペラの創始者といわれます。リュリの後を継いで活躍したのは、クープランラモーでした。18世紀になるとロンドンやパリは国際音楽都市といえる状況になっており、フランスオペラは、元祖・イタリアオペラとの間で形式に関する論争が起こったりもしました。

(蚊帳の外だった後進地域のドイツ諸国では、「イタリア風とフランス風の両方の良さを混合させて普遍的なドイツの音楽となる」というロジックによって権威を得ようとする動きに繋がっていきます。)

このように支配者階級の文化が発展していく一方で、セーヌ川沿いの街頭での大道歌手たちが政府や貴族を風刺した歌で人気を博していたと言い、この時期はこのような歌唱がシャンソンとされました。

18世紀末ごろには、「きらきら星」として知られる「Ah! Vous dirais-je, Mamanあのね、お母さん)」も流行し、こちらもシャンソンと呼ばれます。作曲者はラモーだと言われています。

(イギリス人による替え歌「Twinkle, twinkle, little star」が広まり、童謡として定着したようです。また、クラシックではモーツァルトによる「きらきら星変奏曲」も知られています。)



◉フランス革命~19世紀前半

18世紀末にフランス革命が起こり、多数の革命賛歌や軍歌が作られました。その中の1つが、現在のフランス国歌「ラ・マルセイエーズ」です。このような歌も広義の「シャンソン」の1つだそうです。

フランス革命~ナポレオン戦争のあと、1815~1830年はブルボン王政復古となります。1830年に「七月革命」が起き、絶対王政は再び打倒されました。ここからルイ・フィリップが王となる「七月王政」時代に入ります。

フランス革命によって一瞬で社会が民主化したわけでは無く、一筋縄ではいかない動乱が続いていたため、貴族社会は断絶したわけではなく、むしろ「継続」したそうです。パリの街には多くの貴族や新興ブルジョワジーらが住み、絶対王政の宮廷時代から続く華やかな文化を引き継いで、社交が行われていました。

王侯貴族の権威が解体された後も、階級意識は浸透しており、裕福な貴族や大資本家たちから支援を受けて音楽家が活動していました。各邸宅にて頻繁に開催されたパーティーは、「サロンコンサート」と呼ばれ、19世紀前半のフランス音楽が発展する重要な舞台となりました。復古王政時代はオペラコンサート中心で歌唱が嗜まれ、七月王政期に入るとピアノコンサートが増加し、ショパンやリストなどが活躍したのでした。一方で、社交界でのダンスミュージックとしては、ワルツポルカなども流行します。



◉19世紀後半

19世紀半ばのパリでは、オペラを庶民的にした「オペレッタ」が確立。ウィーンやイギリスにも飛び火し、19世紀後半を通じて半世紀にわたりヨーロッパで流行します。そして後にアメリカへも影響してミュージカルへと繋がります。

一方で、この時期には軍事的にも音楽学的にもドイツの権威が高まってきており、フランスの栄華が脅かされつつありました。

1870~71年にプロイセン・フランス戦争(普仏戦争)が勃発。それまでのヨーロッパの大国だったフランスに対し、なんとプロイセンが圧勝し、衝撃を与えます。ついに南ドイツも含めた「ドイツ帝国」を成立させ、念願のドイツ地域統一がなされます。フランスに対しては、多額の賠償金のほか、ドイツ帝国の皇帝戴冠式をヴェルサイユ宮殿で行うという屈辱までフランスに与え、フランスはドイツに対し不満と復讐心を抱くようになります。

これをきっかけに、第一次世界大戦につながる40年間のヨーロッパ世界の軍事的な構図が決定しました。同時期に明治維新を果たした日本も、プロイセンドイツを参考に軍事や学問を取り入れたのです。

フランスでは音楽面でも、ドイツに対する対抗意識が芽生えました。パリではここまで、貴族のサロンコンサート文化や、オペレッタの発生など、比較的、娯楽音楽の性格を持っていました。深さ・内面性が求められるドイツのクラシック音楽は「真面目な音楽」と呼ばれ、ワルツやポルカ、オペレッタなどの娯楽音楽と対比されていたのです。

ところが、普仏戦争フランスがプロイセンに負けたことにより、フランスにも「真面目な音楽」の伝統をつくろう!という動きが発生します。フランクサン・サーンスシャブリエフォーレらによる 「国民音楽協会」が1871年に設立されます。こうして、真面目な芸術としてのクラシック史上の「フランスのロマン派・クラシック音楽」の潮流が誕生しました。

しかし、オペレッタなどの「娯楽演芸」は引き続きヨーロッパのブルジョワ市民に流行していましたし、さらにこのころからパリでは、上流階級の閉じられた「サロン」から、「カフェー」「キャバレー」などへと、新しい溜まり場が広がっていった時期でもあるのです。これが芸術家や文化人たちの情報交換や新しい流行の発信源となります。これがやがて、クラシックではない「(狭義の)シャンソン」の系譜につながったと見て良いでしょう。




◉ベル・エポックの「モダン・シャンソン」

ベル・エポックとは「良き時代/美しき時代」を意味し、フランスにおいて19世紀末から第一次世界大戦が勃発するまでの約25年間を指します。

クラシック史では、ドビュッシーやラヴェル、サティーらフランスの作曲家たちによって、それまでのロマン派とは全く異なる「近代音楽」と呼ばれる時期に突入。ドビュッシーの音楽は同時期の絵画の潮流と併せて「印象派」などとも呼ばれました。

大衆音楽と芸術音楽を厳密に区別したドイツ系の考え方とは違い、フランス近代音楽は異国の要素や世俗的要素も取り入れられます。ドビュッシーはラグタイムの要素を取り入れた楽曲も作っていたり、サティーはキャバレーで下積み演奏をしていた経験から、鑑賞用ではなくBGMとしての音楽でも良い、という「家具の音楽」という考え方を示しています。こういった要素はドイツから見ると「フランス的軽薄」として非難されました。

クラシック史ではそのようなドイツ的な視点があるため、大衆音楽についてはなかなか記述の対象になりませんでしたが、この時期に前後して、ついに「モダン・シャンソン」の系譜が開始します。キャバレーカフェーといった店で歌手たちがパフォーマンスしていくうちに、工夫して聴衆を動員するようになったり、人気のスターが生まれるようになるなど、シャンソンは著しい発達を遂げていったのでした。

1881年、パリ・モンマルトルに有名なキャバレー「ル・シャ・ノワール(黒猫)」が誕生。当初は会員制で、そのメンバーとなって名声を博したのが、伝説の歌手・アリスティード・ブリュアンでした。赤いスカーフと黒いマントが印象的なポスターでよく知られ、「近代シャンソンの祖」といわれています。

ル・シャ・ノワールは1885年に移転され、会員制を廃して一般客にも開放されて発展していきました。こうして、ベル・エポックに突入。

ベル・エポック期には、イヴェット・ギルベールフェリックス・マイヨールハリーフラッグソンといった歌手たちがカフェーの大スターとして人気を博しました。こうして、20世紀初めに現代シャンソンの基礎が固まったのでした。




◉レビューでのシャンソン発展期

第一次世界大戦を過ぎると、シャンソン歌手の活動場所の中心はイギリス発祥のミュージックホールへと移っていきました。ミュージックホールはカフェーよりも規模が大きく、踊りや芝居を交えたショーが繰り広げられ、客は飲食ではなく入場料によって鑑賞する、文字通り「ホール」のシステムとなったのでした。ミュージカル史の項でも紹介した通り、パリでは、演劇としてレビューの全盛時代を迎え、これもアメリカにてミュージカルの1つのルーツとなりました。

当時、多くのレビューに出演して活躍したのがミスタンゲットで、華麗な舞台と脚線美で「レヴューの女王」「ミュージックホールの女王」などと呼ばれました。1926年のレビュー『サ・セ・パリ』の主題歌が全世界に知られています。

彼女の相手役も務めたモーリス・シュヴァリエは、その後アメリカへ渡って映画スターとしても活躍しました。

逆に、1925年にアメリカからパリへ来たジョセフィン・ベーカーは、1930年にレビューで歌った『二つの愛』が大ヒットし、ミスタンゲットに続くレビュー界の女王となりました。




◉シャンソン・レアリスト

このように華やかなレビューが栄えていった一方で、1930年代にかけてはシャンソン・レアリストという、暗く現実的なシャンソンも興り、ヒットしました。その中心となった歌い手が、「三大・シャントゥーズ・レアリスト(現実派女性歌手)と呼ばれた、イヴォンヌ・ジョルジュ、フレエル、ダミアの3人です。

(特にダミアの『かもめ』『暗い日曜日』などのレコードが日本にも紹介されたために、「暗くて深刻な歌がシャンソンの主流」であるというイメージが日本に植え付けられたそうです。)

『ジュ・トゥ・ヴ』はクラシックでも有名なサティが作曲しています。



◉映画主題歌やジャズの影響を受けたシャンソン

フランスでは19世紀末に映画が誕生した本場だけあって、戦前の映画界はフランスが主導していました。映画音楽の項でもみたように、サン・サーンスをはじめとした多くのフランスのクラシック音楽家が、劇場で演奏するための映画音楽も手掛けていました。そんな中で新興のアメリカ・ハリウッド映画も発達しつつあり、電気録音技術の発明とともにレコード録音の音質も向上し、1920年代に、音声付きの「トーキー映画」が誕生します。そして、映画主題歌のシャンソンが次々に流行していくのです。

1930年、トーキー映画巴里ぱりの屋根の下』がつくられ、その主題歌が大ヒット。つづいて、『人の気も知らないで』『マリネラ』巴里ぱりさいといった映画主題歌シャンソンがヒットしました。

ラジオ放送やレコードも開始・普及し、新たなメディア文化の中で多くのヒット曲が広まり、シャンソンが新展開していきました。

また、当時アメリカから登場していた新しい音楽・ジャズの手法も、1920年代から少しずつシャンソンに取り入れられていました。そのような中で登場したのが、ジャン・サブロンです。ジャン・サブロンは、初めてマイクを使った歌手として知られており、また、1933年にはジャズギタリストのジャンゴ・ラインハルトのバンドを起用したことでも知られ、「フランスのビング・クロスビー」などと称されています。

ミレイユ(ミレイユ・ハルトゥク)や、ティノ・ロッシ、シャルル・トレネらも、ジャズの影響下で登場したシャンソン歌手であり、さらにルンバやタンゴなど1930年代にヨーロッパで大流行したラテンのリズムを使ったシャンソンも多くつくられました。



◉第二次大戦直後~ シャンソン最盛期

第二次世界大戦中は一時沈滞しましたが、戦後になるとシャンソン界は再び勢いを取り戻しました。ジョルジュ・ユルメールの『ピギャール』からはじまり、イベット・ジローの『あじさい娘』やリュシエンヌ・ドリールの『私を抱いて』、ジャクリーヌ・フランソワの『パリのお嬢さん』、リーヌ・ルノーの『カナダの私の小屋』、そしてアンドレ・クラヴォーによる多数の楽曲など、多くの歌手が活躍して多くのヒット曲が産まれました。

こうして1950年ごろにシャンソンが最盛期を迎えますが、群雄割拠の中でも「シャンソンの女王」「シャンソン界最大の女性歌手」として大活躍したのが、エディット・ピアフでした。『愛の賛歌』『バラ色の人生』などの楽曲が、シャンソンというジャンル自体の代表曲として全世界に知られたのでした。

そしてさらに、ピアフに見出された男性歌手イヴ・モンタンも、映画『夜の門』の主題歌『枯葉』がヒットし、現在ではジャズのセッションにおけるスタンダード曲としても有名になっています。シャルル・アズナヴール
ジョルジュ・ムスタキシャルル・デュモンといったアーティストがピアフの恩恵を受けて活躍しました。



◉新たな潮流「左岸派」

さらに、第二次世界大戦後のパリでは、上記のようなシーンとは別に、セーヌ川左岸「サン・ジェルマン・デ・プレ」地区を中心とした「左岸派」と呼ばれる派閥も登場しました。特に、1947年に開店したキャバレーである「タブー」という店に、有名な実存主義哲学者のサルトルをはじめとした学者・詩人・文学者・学生らが集まるようになり、この店に出入りしていた歌手や作曲家たちを中心に、サン・ジェルマン・デ・プレ地区のアーティストが多く活躍し始めたのです。

ジュリエット・グレコ、レオ・フェレ、カトリーヌ・ソヴァージュボリス・ビアンマルセル・ムルージコラ・ヴォケール、ジョルジュ・ブラッサンスらがこの潮流に挙げられます。



◉「イエイエ」または「フレンチ・ポップス」

1950年代の後半になると、アメリカで発生したロックがフランスにも流入し、シャンソンにも影響しはじめました。そのような状況下で登場したのが、ダリダジャック・ブレルです。

そして1960年代に入ると、いよいよロック調の流行が決定的となり、この新しいシャンソンのジャンルとして「イエイエ(Yé-yé)と呼ばれます。ジョニー・アリディ、シルヴィ・ヴァルタン、サルヴァトール・アダモ、エンリコ・マシアスらがヒットを放ちました。


1960年代後半にはミレイユ・マチューミッシェル・ポルナレフ、クロード・フランソワが登場。日本では「フレンチ・ポップス」というジャンル名で広がりました。さらに、前回のカンツォーネの記事でも紹介した「ユーロビジョン・コンテスト」からは、フランス・ギャル『夢見るシャンソン人形』が大ヒットしました。


1970年代になると、ロック調のシャンソンの波はおさまりました。

これ以降、フランス国内の流行歌シーンはディスコ調やポップス調などその都度の流行に合わせてヒットソングが登場し、そのジャンルは複雑に展開していきます。しかし、狭義の「シャンソン」としては、この段階までが伝統的なジャンルとして固定化し、現在に至ると言えるでしょう。

→次の記事はこちら

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?