見出し画像

【分野別音楽史】#07-1 ヨーロッパ大衆歌謡➀カンツォーネ(イタリア)

『分野別音楽史』のシリーズです。
良ければ是非シリーズ通してお読みください。

本シリーズのここまでの記事

#01-1「クラシック史」 (基本編)
#01-2「クラシック史」 (捉えなおし・前編)
#01-3「クラシック史」 (捉えなおし・中編)
#01-4「クラシック史」 (捉えなおし・後編)
#01-5 クラシックと関連したヨーロッパ音楽のもう1つの系譜
#02 「吹奏楽史」
#03-1 イギリスの大衆音楽史・ミュージックホールの系譜
#03-2 アメリカ民謡と劇場音楽・ミンストレルショーの系譜
#03-3 「ミュージカル史」
#04「映画音楽史」
#05-1「ラテン音楽史」(序論・『ハバネラ』の発生)
#05-2「ラテン音楽史」(アルゼンチン編)
#05-3「ラテン音楽史」(キューバ・カリブ海編)
#05-4「ラテン音楽史」(ブラジル編)
#06-1「ジャズ史」(草創期)
#06-2「ジャズ史」(1920~1930年代)
#06-3「ジャズ史」(1940~1950年代)
#06-4「ジャズ史」(1960年代)
#06-5「ジャズ史」(1970年代)
#06-6「ジャズ史」(1980年代)
#06-7「ジャズ史」(1990年代)
#06-8「ジャズ史」(21世紀~)

西洋音楽史においては、クラシック史が主に大陸側のヨーロッパ(独・仏・伊)での話であり、ポピュラー音楽史ではアメリカやイギリスを中心に語られます。また、スペインなどラテン系の民俗音楽から中南米のラテン音楽の発生に繋がっていったことも書きました。

しかし、それだけではなく、フランスやイタリアの音楽においても、クラシックとは異なる「大衆歌謡」も発生しています。それが「シャンソン」「カンツォーネ」です。これらの語はそもそも単に「歌」を意味する言葉ですが、狭義では特定の大衆歌謡を指しているように思います。今回はそのあたりを紹介していきます。

まず今回は、イタリアのカンツォーネについてです。


過去記事には クラシック史とポピュラー史を一つにつなげた図解年表をPDFで配布していたり、ジャンルごとではなくジャンルを横断して同時代ごとに記事を書いた「メタ音楽史」の記事シリーズなどもあるので、そちらも良ければチェックしてみてくださいね。


◉オペラ誕生前(中世・ルネサンス)の世俗歌

クラシック史やミュージカル史などの記事で何度も触れたことの焼き直しにはなってしまいますが、イタリアの歌謡と関連がある分野として、オペラ史にも触れながら見ていきたいと思います。

キリスト教の支配によって芸術的に後進地域だった中世ヨーロッパですが、キリスト圏からイスラムへの攻撃行為(十字軍)などによって、中世における文化的先進地域だったイスラム・アラブから情報が逆輸入され、古代ギリシアの文化を勃興しようという動きがイタリアから発生し、ルネサンスとなっていきました。

クラシック史は近代ヨーロッパ人のための歴史なので、イスラーム文化の影響には全く触れられず、権力者(聖職者)の紙資料として残っているキリスト教のグレゴリオ聖歌ばかりが「音楽」のルーツとして示されています。

一方で、中世ヨーロッパには聖歌ばかりでなく、トルバドゥール(イタリア地域)やトルヴェール(フランス地域)、ミンネザング(ドイツ地域)といった世俗歌も存在していました。

そんな中世を経てルネサンス期になると、イタリアにはフロットラマドリガーレといった世俗歌曲の作品が登場し始めます。

このような音楽の流行がオペラ誕生への重要な布石になりました。



◉オペラの発展と「ヴェネチア歌謡」

このような世俗歌曲の流行と、ルネサンスの動きが組み合わさり、16世紀末にフィレンツェの貴族中心の文化人グループ「カメラータ」によってオペラが誕生しました。こうしてバロック期に突入し、ヴェネチアオペラの隆盛からナポリミラノでの次世代のオペラ・ブッファへと発展。フランス宮廷でも娯楽として嗜まれ、オペラはヨーロッパ貴族たちにとっての重要な娯楽芸術となりました。

一方で、既に18世紀から19世紀にかけて、民謡としてヴェネチア歌謡(カンツォーネ・ヴェネチアーナ)というものも流行しており、「ゴンドラのブロンド」という曲や「愛しのわが子」という曲が広く知られています。

19世紀に突入し、ベートーヴェンの登場したドイツ地域では「娯楽とは違う深遠な芸術としての音楽」を重視する風潮が生まれ、これが現在のクラシック史の視点となりましたが、一方でイタリアでは引き続き華々しくオペラが発展。ロッシーニドニゼッティベルリーニなどが活躍しました。



◉オペラの退潮と「ナポリ歌謡」

19世紀後半になると、次第にドイツ系の楽壇の権威が強くなっていき、哲学的な芸術性を大仰に詰め込んだワーグナーの楽劇といった長大なオペラが登場。それに呼応するように、イタリアオペラにおいてもヴェルディがロマン派オペラを変革させた人物として評価されています。一方で、逆にオペラを親しみやすくしたオペレッタがパリで発生し、イギリスやアメリカにも伝わってミュージカルの系譜となっていきます。

19世紀末のロマン派末期になると作品の複雑化・大仰化が進み、音楽理論の進歩史観に支えられたクラシック芸術のピークとなります。一方で、19世紀末には既に蓄音機や映画といった20世紀の大衆メディア文化の産声が上がっており、イギリスやアメリカの演劇娯楽も発展途上にありました。

そんな状況において、旧来の貴族的娯楽であるイタリアオペラは「クラシック学問」と「新しい大衆文化」のあいだに挟まれた、非常に厳しい状況下にあったと思われます。

演劇史としてはイギリスやアメリカのオペレッタに天下を取られ、芸術音楽としても前時代のものとされてしまったイタリアオペラは、最後の栄華としてマスカーニや「蝶々夫人」「トゥーランドット」などで知られるプッチーニが活躍しました。

さて、そんな19世紀末に、大衆歌曲として「ナポリ歌謡(カンツォーネ・ナポリターナ)」と呼ばれる音楽が発生しました。

1880年代~1920年代に楽曲が多く書かれ、主にクラシック歌手によって歌われるこのジャンルですが、クラシック史としてはあまり評価されず、ポピュラーソングとして多くの楽曲が残っています。「オー・ソレ・ミオ」「フニクリ・フニクラ」「帰れソレントへ」などが代表例です。

このような音楽が20世紀前半に流行し、日本で「カンツォーネ」といった場合、どちらかというとまずはこのような音楽を指すことが多いです。



◉20世紀後半のポップスとしてのカンツォーネ

冒頭に触れたとおり、カンツォーネとはイタリア語で単に「歌」を意味する語であるため、上で触れた伝統的な民族歌謡曲だけでなく、20世紀後半のポップスミュージックも意味することがあります。

1950年代、第二次世界大戦後の復興が進んでいたヨーロッパで、欧州放送連合が、加盟国が一体となっての「明るいエンターテイメント番組」を模索するべく、ユーロビジョン・ソング・コンテストというものを立ち上げました。各国からアーティストがそれぞれ生放送で自らの楽曲を披露し、引き続いてそれぞれの参加国が他国に投票して優勝者を決定するというこの大会からも多くの新しいカンツォーネ(や、フランスのシャンソン)が産まれて広まったと考えられます。

日本では1960年代~1970年代に多くの楽曲が流行し、歌手によってカバーソングも歌われました。以下のような音楽と、次の記事で触れる「シャンソン」などが、「演歌」につながる前段階としての「歌謡曲」の一つのルーツとしても注目できると思います。


→次の記事はこちら

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?