【分野別音楽史】#06-7「ジャズ史」(1990年代)
『分野別音楽史』のシリーズです。
良ければ是非シリーズ通してお読みください。
従来のジャズ史では70年代のみが「フュージョンの登場」というある種の「暗黒期」で、80年代は「新伝承派」の登場=「ビバップへの揺り戻し」というような図式で語られ、そこで物語が終了していました。
しかし実際はそんな単純な図式ではなく、フュージョンが誕生してからも、同時並行で「ポストバップ」としてアコースティックジャズが続いており、多種多様な方向性の「フュージョン」と並存していた、という図式をここまで書いてきました。
70年代~80年代までは、フュージョンミュージシャンとジャズミュージシャンというのは、互いの範囲がかぶった分野として発展していたといえるでしょう。しかし、フュージョンという枠組みが徐々に飽きられ、その中でポストバップから最も遠いAOR的なサウンドの分野が80年代後半以降、フュージョンに代わって「スムースジャズ」と呼ばれるようになっていきます。
さらにアコースティックジャズにも新たな動きが生まれ、90年代以降は「スムースジャズ」と「アコースティックジャズ」が異なる動向を見せていったと言えます。
そのようなようすを今回は見ていきます。
◉マイルスの死とヒップホップジャズ
ジャズ史におけるほとんどのサブジャンルの開拓者といえる「帝王」マイルス・デイヴィスは、新アルバム制作途中の1991年に、65歳で息を引き取りました。
構想されていたアルバムはヒップホップのミュージシャンであるイージー・モー・ビーをゲストに迎えたものであり、結局イージー・モー・ビーが大きく手を加える形で完成させられ、同年『ドゥー・バップ』としてリリースされました。
常にその時代の新しいスタイルを取り入れてジャズのサブジャンルを更新し続けたマイルスは、このアルバムのヒップホップ・ジャズとも言えるサウンドで最後の最後まで、次のジャズの進む道を示したといえます。
◉90年代フュージョン/スムースジャズ
大枠は「ジャズ」でありながらも、本来のアコースティックジャズとは離れたシーンとして、「スムースジャズ」は隆盛が続いていきました。ソウルやファンクなどのフュージョンサウンドも統合していき、往年のフュージョンミュージシャンから新たなプレイヤーまでが登場して活躍します。
まずはマドンナやプリンスのバックバンドで活躍して注目されていた女性サックスプレイヤーのキャンディー・ダルファーが、バックバンドでは無く自身の活動にも意欲を見せ、そのファンキーなサウンドでインパクトを与えました。
サックスプレイヤーとしては他に、ジェラルド・アルブライトやエリック・マリエンサルも非常に人気が高い存在となりました。
スタジオ系ミュージシャンとして活躍していたベーシストのネイザン・イーストは、フュージョン界の名プレイヤーであるボブ・ジェームス、リー・リトナー、ハービー・メイソンらと「フォープレイ」を結成。ギタリストはラリー・カールトンを経てチャック・ローブにメンバー・チェンジするなど、フュージョン界の名プレイヤーが集まるスーパーグループとして注目を集めました。
ジャズ・フュージョングループのイエロージャケッツは、1990年にボブ・ミンツァーが加入して勢いを持ちました。彼らは「スムースジャズ系」と括られているのバンドの中では、比較的ジャズ寄りの要素を強めたサウンドを打ち出していき、多くの後進のジャズミュージシャンにも影響力を与えました。
◉「M-BASE派」の登場
1980年代にはビバップ回帰の「新伝承派」というムーブメントが起こり、ジャズ評論から注目を集めていました。これは「クロスオーバー・フュージョンといったロック寄りではなく、伝統的なジャズのスタイルを復活させよう」というウィントン・マルサリスらによる原点回帰のムーブメントでした。
しかし、おもにニューヨークのハーレムやブルックリン地区で活動をしている若手ミュージシャン達からは、「新伝承派は単なる懐古趣味なのではないか?」というアンチ・マルサリス派の動きが起こってきたのです。
そして彼らは、フュージョンやスムースジャズのように安易に電子サウンドには手を出さず、しかし形式的に過去のジャズを演奏するわけでもない、アコースティックジャズとしての新しい形を試みていったのです。
特に、スティーブ・コールマンが提唱した「M-BASE理論」によってムーブメントとなり、運動の中心にいた若手ミュージシャンたちは「M-BASE派」と呼ばれました。ニューヨークのブルックリンから発祥した動きであるため、ブルックリン一派とも呼ばれます。
スティーブ・コールマン、グレッグ・オズビー、ジェリ・アレン、グレアム・へインズ、カサンドラ・ウィルソン、ジョン・ゾーン、ビル・ラズウェル、ティム・バーン、ゲイリー・トーマス、ビル・フリゼール、ロビン・ユーバンクスといった人々が新世代ジャズを演奏し始めたのでした。
「M-BASE派」は、フュージョン時代のアコースティックジャズである「ポストバップ」から、現在の「コンテンポラリージャズ」の中間に位置する存在だといえます。この動きに続いて、コンテンポラリージャズの中核を担うさらに次の世代が活動を開始していくことになります。
◉ビッグバンドとラージアンサンブル
オールドなスウィングジャズとは違う「モダンビッグバンド」として、1960年代に結成されていた「サド・ジョーンズ&メル・ルイス・ジャズ・オーケストラ」、通称:サドメルですが、1978年にバンドは「メル・ルイス・ジャズ・オーケストラ」となって継続していました。
1990年、メル・ルイスが亡くなり、バンドの名称は拠点としていたジャズクラブの名を冠してヴァンガード・ジャズ・オーケストラとなります。
メル・ルイス時代からヴァンガード時代にかけて、ボブ・ブルックマイヤー、ボブ・ミンツァー、ジム・マクニーリーらが代表的なアレンジャー・コンポーザーとして活動し、斬新なハーモニー感覚が後進の多くのジャズミュージシャンに影響を与えました。
マイルス・デイヴィスと二人三脚でクールジャズやモードジャズなどを研究したアレンジャーのギル・エヴァンスの弟子であるマリア・シュナイダーは、1993年にマリア・シュナイダー・オーケストラを結成しました。
彼女は1986年から1991年の間、ボブ・ブルックマイヤーのもとでも学んでおり、さらにクラシックの素養もありました。
従来のビッグバンドのアレンジ法にとらわれない、クラシックの影響を感じるシンフォニックな作風によって、ビッグバンドとは違う、ラージアンサンブルというジャンル名で呼ばれるようになります。
「ラージアンサンブル」は21世紀現在のジャズで無視できない潮流の1つとなっており、この時代に起こった「サドメルからマリア・シュナイダーの系譜」が重要となってきます。
◉アシッドジャズ、クラブジャズ
ところで、1990年代はヨーロッパのクラブシーンにおいて、ハウスやテクノのサブジャンルが著しく発展していました。そういった中で、ジャズやフュージョンのレコードも選曲されてリズムマシンやサンプリングを絡めてプレイされるようにもなっており、クラブシーンから派生した「踊るためのジャズDJ」という文化が生成されつつありました。
クラブで客を踊らせるのに適したレコードが過去の豊富な音源の中から探されるようになり、従来のジャズリスナーとは全く異なる価値基準で音楽が評価されるようになったのです。発掘されるようになった音源群は「珍しいグルーヴ」「見つけ難い音源」という意味でレアグルーヴと呼ばれるようになっていました。
このような背景から、特にこの時期に登場したジャズ・ファンクやソウル・ジャズ等の影響を受けたクラブミュージックがアシッドジャズというジャンルとなりました。クラブで踊るためのジャズというもう少し広い意味では単にクラブジャズという言い方も登場し、現在まで使用されています。
そして、このムーブメントと一体となったバンドやアーティストも登場しました。インコグニート、ブラン・ニュー・ヘヴィーズ、ジャミロクワイらが代表的なアシッドジャズのアーティストです。
彼らの音楽はあくまでもジャズ・フュージョンシーンではなくクラブシーンに向けたものであったため、当時の一般的なジャズリスナーからは認知されることはありませんでした。そのため「ジャズ」という名前が付いていてもジャズ史に記述されることもなく、クラブミュージックのジャンルの一つとして残ることとなったのです。
しかし、広い意味では「ジャズの1ジャンル」としてとらえることもでき、特に21世紀に入りヒップホップとの結びつきが強くなった現在のジャズ界の視点から遡ってもアシッドジャズは無視できない分野となって注目されています。
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