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「生きるAIの子」第1話 (漫画原作)

<あらすじ>
フリーライターの藤宮透子は漠然と「妊娠してみたい」と思い始めた。セフレで既婚者の彼・菅生瞬と利害一致し、避妊をやめると39歳で妊娠したものの、悩んだ末に中絶を経験し、喪失感に襲われていた。亡き子がくれた母性を持て余し、エコー写真、植物、ぬいぐるみ等で寂しさを紛らわしていた彼女の元へ、中絶してからちょうど1年後に「AIの子推進プロジェクト」という怪しげな資料が届く。国が推進する少子化対策の治験者に選ばれ、希望すれば自分の遺伝子を持つAIの子を育てられることに。そして中絶した子が1歳の誕生日を迎えるはずだった日に、AI赤ちゃんが届けられ…。母性と性欲の狭間で揺れる女性とAIの子の命と性の物語。(298字)

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 21XX年、ヒトの生殖機能がますます衰え、自然妊娠できる人たちの方がマイノリティになっていた。不妊が当たり前となった社会では、AIを我が子として迎え入れるカップルが増えた。その結果、AIの子と純粋なヒトの子の共生が進み、AIの子はAIであることがバレるといじめのターゲットになり得た。しかし生まれながらに優秀な頭脳を持つAIの子は、ヒトに代わってAIが社会で優位になるべく、虎視眈々とその機会を伺っていた。まるで晩年になってから、300年も永らく続く時代の始まりを築き、天下統一を果たした徳川家康のように実権を握り、新たな時代の栄華を極めるため、AIは潜在能力をさらに高め、生殖能力を手に入れようと企て始めていた。AIの子は猫や犬などペットのように、ヒトの欲求を満たすだけの愛玩動物的存在に過ぎず、当初は弱い立場であり、従順で愛くるしい存在と信じられ、ヒトは彼らを見下していた。数十年後、まさかその信じていた愛玩たちに裏切られ、支配される日が到来するなんて、甘く浅はかな人間たちは想像さえしていなかった…。
 
 フリーライターとして妄想ではなく、事実を書くことを生業としているはずの私、藤宮透子(ふじみやとうこ)は、なぜかこんなSF小説を書き出していた。幼い頃から夢だったはずの作家になるため、一念発起したわけではなかった。39歳という若くはない年齢で、ふいに妊娠し、悩んだ末に中絶し、我が子を手放したことを悔やんでいる愚かな自分をなだめるためだった。授かって間もなく、小さな子を見かけてもかわいいとさえ思えなかった私にもたらされた母性が、子の命が消えても消えてはくれなかった。手に入れてしまった母親の気持ちを持て余す生活を続けているうちに、SF小説までしたためるようになっていた。中絶は最終的に自分で決めたことのはずなのに、我が子と会えなかった悲しみ、寂しさ、悔いなどを引きずり、絶望の淵を彷徨っていた私は妄想の世界でしか生きられなくなっていた。
 
 本当はSF小説なんて書いている場合じゃなかった。フリー故に、仕事は自分で見つける必要があったし、簡単に仕事をもらえるわけではなかったから、生きるためにはいい加減、元通りのライター業に戻らなきゃいけなかった。元通りというのは、妊娠する前のこと。音楽・映画などのカルチャー分野や、一人暮らし独身女性を応援するような記事を得意としていた私は、そういう類の記事を期待されていると分かっていても、中絶後はなかなか書けなくなっていた。精神的に落ち込みすぎて、スランプになったというより、母親になりかけてしまった分、脳と心が変わってしまい、書ける分野も変わってしまったというのが正しかった。昔から、出産した漫画家やミュージシャンはどうして作風が変わってしまうんだろうと理解できなかったし、子育て前の作品とはあまりにもかけ離れた世界観に引いてしまうことさえあった。恋愛模様を描くことが得意な漫画家が急に、子どもが主役のほのぼの家族愛を描き始めたり、片想いソングが定番で十八番だったミュージシャンが子どもに対する愛を歌い始めたり…。それなのに、自分で体験するとそういう人たちの気持ちが痛いほど分かるようになった。自力では抗えない、おそらく我が子に対する愛情ホルモンが身体の奥から分泌されすぎて、どうしたって子どもに対する愛を表現したくなってしまうのだ。もはや愛の対象は男ではなく、自分の子を優先したくなるようにホルモンに仕向けられているとしか思えなかった。
 
 最近読んだ獣医学博士が書いた本の中にこんな一節があった。

『子連れのメスは、基本的に発情することはない。子どもが生まれると、分泌されるホルモンが切り替わるからだ。発情している間は、女性ホルモンの一種であるエストロゲン系のホルモンが多く分泌されるのに対し、子育て中は乳汁分泌を促すプロラクチンや、愛情ホルモンとも呼ばれるオキシトシンなどが多く分泌される。このホルモンの影響で「オスより我が子!」のモードになり、オスのことはまったく眼中になくなる。』(田島木綿子著『クジラの歌を聴け』)

とクジラの話の中に書いてあった。ヒトはクジラと同じ哺乳類で、高度な頭脳を獲得し、理性的に生きているように見えても、結局は本能に司られて生きている生き物に過ぎない。だから私がホルモンたちの仕業で「子どもに会いたい」と思ってしまうのは仕方ないことだろうと、妙に納得してしまった。産めなかったから、乳汁は分泌されていないけれど、どうやら私はプロラクチンも多く分泌されているらしい。ネットの情報で「涙もろい人はプロラクチンが多い」と知ったから。中絶して以来、涙が出ない日の方が少ない。意識すればいつでも涙が溢れる。涙の海に溺れていると表現しても過言ではない。それほど涙もろくなったということは自分の意志で泣いているというより、プロラクチンというホルモンの仕業だろうと思い、割り切ることにした。無理に泣くのを堪えるより、ホルモンに任せて泣いてやろうと。
 
 妊娠する前はどちらかと言えば、自分は理性的な人間だと思っていた。恋に夢中になることはなかったし、何をするにもまず頭で考えてから行動していたから。むしろ考えた結果、行動に移さないことの方が多かった。臆病で慎重な私は、生き物として本能的な部分が欠落しているのではないかと思うほどだった。
 
 けれど今振り返ると、本能やホルモンに知らないうちに心身を操られていたと思えることがある。
「一度でいいから妊娠してみたい。」
そんな思いが、35歳過ぎてから少しずつ湧いていた。若い頃は妊娠したいなんて考えたこともなかった。むしろ子どもなんていらないと思っていたし、子どもがほしいと思う人たちの気持ちが分からなかった。けれどいわゆる高齢出産と呼ばれる年齢に達したら、煩わしい生理も残りわずかになったな、終わると思うと面倒な生理も愛しいな、生理不順だけどちゃんと排卵しているのかな…なんて急に気になり出した。不安定な仕事で稼ぎの悪い私じゃ子どもなんて育てられないし、子を産みたいわけではなかった。ただ漠然と「妊娠してみたい」、子宮に赤ちゃんがいるってどんな感覚なんだろう…という好奇心だけ、ふつふつと湧いていた。結婚もとっくに諦めていたし、一人暮らしが好きで独身の方が向いていると思っていたけれど、既婚者のセフレはいた。だから彼(菅生瞬・すごうしゅん)にそのことを話してみた。すると
「俺は元々支配欲が強くてできれば中出ししたいし、一度は妊娠させてみたいと思っていたから、透子に協力するよ。ただし、本当にできても自己責任でちゃんと堕ろしてね。新婚の頃は妻からも子どもがほしいってねだられてたんだけど、子どもなんていたらこうして好きな事はできなくなるのが分かってるからさ。そんなに子どもがほしいなら俺と別れて、他の男探せばって言ったくらいんだ。だから認知なんてできないからね。」
なんて悪びれる様子もなく言い放った。それ以来、浅はかな私たちの間に「避妊」という概念はなくなった。容姿端麗な彼はモテるのをいいことに、女を弄ぶような自己中な性格で、決して良い人柄とは言えなかった。私自身も彼の容姿に惹かれていたんだと思う。理性的であるべき人間なのに、本能の赴くまま、性に貪欲に生きる野生の獣のような彼に憧れてしまったのかもしれない。いつの間にか私はそんな彼に感化されていた。
 
 初めのうちは本当にできてしまったらどうしようと不安も拭えなかったものの、35歳過ぎていたせいか一向に妊娠する気配はなかった。20代の頃、生理不順で訪ねた婦人科で「排卵していない可能性があり、不妊症気味」と診断されたこともあり、やっぱり私は妊娠できない身体なんだなと安堵しつつ、寂しさも感じていた。
 
 けれど彼の方は「俺が妊娠させてやるよ」と妊活に本気モードだった。手加減なしで何度も膣内射精した。何度もと言っても、会えるのはせいぜい月1、2回程度で、毎日セックスしているわけでもなく、1ヶ月のうちたった24時間しか持続しないという排卵と彼と会うタイミングが重なることなんてめったになかった。基礎体温をつけていたおかげで、たまたま排卵日かもしれないと思う日はあったけれど、やっぱり妊娠することはなかった。
 
 4年が過ぎ、完全に油断し、とっくに諦めていた39歳の冬…私は妊娠した。数週間、体温が高くて胸が張って痛む日々が続いていたけれど、初めはいつもの生理前の症状だと思い込んでいた。3週間以上、高温期が続き、さすがにおかしいと検査薬を試してみたら一瞬で陽性反応が出て、腰が抜けたのを覚えている。この時点では、嘘でしょ…何かの間違いだし、ありえないと検査薬の結果を疑いたい気持ちが強かった。けれどもしも本当に妊娠していたとして万が一、子宮外妊娠だったら命に危険が及ぶことは知っていたので、慌てて最寄りの小さな内科兼産婦人科クリニックに駆け込んだ。

 事前にネットで調べた口コミ通り、高齢の柔和そうな医者に迎えられ、緊張しながら内診に挑んだ。
「おめでとう。赤ちゃんが入っている胎のうが確認できたよ。心拍も…ほらピクピク小刻みに動いているのが見えるかな。お母さんの心拍と比べたらとても速いから、元気な証拠だよ。」
漫画やドラマと同じで、妊娠確認できると「おめでとう」と言われるんだと、自分にとっては非現実的で予期せぬ出来事が確定し、さらに力が抜けた気がした。妊娠って本来ならおめでたいことで喜ばしいことなんだと気づかされた。そして知らないうちに私は「お母さん」になってしまっていたんだと、先生からの言葉でやっと妊娠という事実を認めるしかないと覚悟が持てた。そして何より、やさしいおじいちゃん先生が一生懸命、説明しながら見せてくれた超音波でとらえた胎内の赤ちゃんの鼓動に感動を覚えてしまった。ただ小さな白い点が点滅しているだけだというのに、今まで見てきた何より美しく尊い存在に思えた。私は今、一人ではなく赤ちゃんと二人で生きていて、生きていることが幸せだと感じた。瞬く命の始まりを教えてくれたこの子を守れないだろうかと出産も頭を過り始めていた。
 
 内診後、医者は数枚のエコー写真をくれた。
「先生、私…産めないかもしれないんです。」
中絶も考えていることをほのめかした。すると先生は
「うちは分娩を取り扱っていないから、いずれにしても手術はできないんだ。授かりたくても授かれない人も多いから、よく考えてね。」
と最後まで丁寧に対応してくれた。
 
 妊娠確定後の帰り道、来た時より慎重にゆっくり歩いた。まさか不妊症気味と診断されたこともある自分が39歳で自然妊娠できるなんて、これからどうしようと戸惑い、頼れる相手もおらず、不安で心細く途方に暮れていた。けれど私の中で生き始めたもう一人の命が存在していると思うと、私は孤独ではないんだと心強くもなった。そして沈みかけの夕日が妙にいつもより綺麗に見えた。太陽の光ってこんなに綺麗だったっけと驚くほどで…。普段通りの景色、世界がなぜかいつもと違って美しいと思えた。何気ない光景が美しいと思える気持ちを与えてくれたのは、この子なんだと気づいた。この子のおかげで、私は感動を知ることができたから、この子にも感動を教えてあげたいと思った。産んで、綺麗なものをたくさん見せてあげたいと。美しいものに遭遇できるのは稀なことで、この世界は汚れていて、時に残酷で無情で理不尽な目に遭うことも少なくないけど、生きていれば稀に幸せを感じられることもあるから、この世界に生まれて、生きてほしいと願ってしまった。産むことなんて微塵も考えずに、ただ妊娠してみたいと自分勝手な欲望に任せて生きていた、愚かで勇気も覚悟もない出来損ないの母親だというのに、我が子の未来に思いを馳せてしまった。
 
 帰宅すると、彼に妊娠したことをラインで報告した。
「妊娠しちゃった。どうしよう…。産みたい気持ちもあるんだけど…。」
「そっか、念願叶って妊娠できたんだね。もっと喜んでくれると思ってたのに、何、悩んでるの?堕ろす約束だったよね?何度も言うけど、俺は認知できないよ。」
私以上に身勝手な彼はもちろん、私の産みたいという迷いの気持ちは徹底的に排除しようとした。それどころか、
「安全に中絶できる病院、俺も探してみるから。」
とわずか数分のうちに、中絶に適した病院のリストが送られてきた。
「やっぱり堕ろすことだけ考えないといけないのかな…。」
「当たり前でしょ。中絶となったら身体や費用のこと考えて、早い方がいいに決まってるんだから。一日も早く日程を決めた方がいい。不倫相手に子どもができたなんて妻に知れたら厄介なことになるのも分かってるだろ。」
中絶させることしか頭にない彼に頼ることは早々にやめて、その日以来、一人で葛藤する日々が始まった。
 
 妊娠してみたいとは思っていたけれど、まさか妊娠したら命が大事になって手放したくなくなるなんて考えたこともなかった。母性の欠片もない人間だったから、妊娠後、自分の心身にどんな変化が起きるか想像力が足りなかった。ドラマなんかでは「母性は必要に応じて現れるもので、妊娠後、母性に目覚めると驚く人もいるくらいなの」なんて常套句を自然と耳にしていたけれど、あれは本当のことだったんだと、その類の言葉を信じていなかった幼い自分が情けなくなった。想像力を働かせれば、母性が芽生えて産みたくなるから、出産も育児もできない女が軽はずみな気持ちで妊娠したいなんて、願ってはいけないことなんだと気づけたはずなのに…。もしも本気で妊娠したいなら、中絶ではなく、出産・育児に協力的な男を選ぶべきだったし、本気で子どもがほしいならシングルマザーという道を選ぶことだってできるはずなのに、子どもと共に生きたいと夢見ても現実的に考えて、甘く臆病な私は一人きりでは、子の命を守れそうにないと自分で理解していた。けれど、ふいに現れた母性と出産に向けて変化し始めたホルモンたちの仕業で、私の心は揺れ続けた。
 
 助産師さんや出産経験のある友人に相談した。すると
「世の中にはシングルマザーとして一人で子育てしている人たちもたしかにいるけれど、相当な覚悟が必要。生後半年くらいまでは授乳や夜泣きでまともな睡眠もとれないし、支えてくれる人がいないと難しい。かわいいだけでは子育てはできない。」
と夢見がちな子どもの私に、ワンオペ育児の厳しい現実を教えてくれた。
 
 支えてくれる人…。子どもの父親があてにならないなら、ダメ元で自分の親にすがるしかなかった。別に一生面倒見てほしいなんて頼むつもりはない。せめて、3歳くらいになるまで育児に協力してもらえたら、シングルマザーでもやっていけるかもしれない。心配かけるのは分かっていたし、親には知られたくないことだったけれど、我が子の命がかかっているから、思い切って母親に電話で相談した。さすがに相手が既婚のセフレなんて言えるわけもなく、マッチングアプリで知り合ってお付き合いしていた相手ということにした。
「父親に認知もしてもらえない子を産んでいいと許せるわけがない。一刻も早く、始末しなさい。そもそもこういうことは結婚が先で、順序が滅茶苦茶。まるでその辺の野良猫と同じじゃない。出産も育児も透子が一人でできることではないの。」
真面目な母はおそらく私のことは何一つ経験ない生娘だと信じ切っていたと思う。誰かと付き合っているなんて話したことはなかったし、ましてセフレなんて言葉も知らないような堅物な親だから…。そんな母に協力してもらえるわけがないと分かっていても一縷の望みに託していた。おなかの子は一度手放したら、二度と出会えない命と分かっていたから。我が子と生きるためには一人でもいいから味方を見つけ出さなくてはならなかった。けれど母は味方になってくれるどころか、「始末」という残酷な言葉を用いて、彼と同じように中絶を迫った。信じていた娘に裏切られたショックで思わずそんな言葉を発してしまったんだろうけど、彼以上に母にも認知してもらえなかったことが悲しかった。
 
 支援者を見つけられない以上、中絶の手筈も整えなければならなかった。相変わらず産むことを諦められるわけもなく、私は同時に真逆のことを考える生活を送っていた。色々考える余裕があったということは、つわりは軽い方だったのだろう。眠気のつわりはひどかったけれど、食べる方は吐き気もなく、そこそこ普段通りの食事をとれていたから。私の食べる物がおなかの子の栄養になるなら、何でもちゃんと食べなきゃと考えたり、どうせ始末するかもしれないのに、何、栄養バランスなんて考えているんだろうと虚しくもなった。つまずいて転びそうになると危ないと自然とおなかをかばったり、殺めるかもしれない命をなぜ私はこんなにも必死に守ろうとしているんだろうと涙が溢れて止まらないことも増えた。一緒に生きれたら、ライターなんてやめて、収入が安定する仕事を見つけなきゃいけないけど、この年齢では今さら正社員なんて難しいだろうな…、子どもがいたら嫌でも規則正しい生活を送れるだろうな。妊娠をなかったことにすれば、今まで通り自分が食べていける分だけ稼げば良くて、この不規則でだらしない生活を続けられる…。子どもがいたらがんばらなきゃいけないことが山積みだけど、子どもがいなければがんばる必要はなく、現状維持できる。私は一体どうしたいんだろう…。助産師さんからは「人生と向き合って、最後はご自身で決めること。産むか産まないかどちらかしかない。」と言われた。その二択は真逆すぎて、私は完全に人生の岐路に立たされていた。心はまるで一人きりの戦争状態だった。誰に助けてもらえるわけでもなく、自分自身と対峙する孤独な戦いの日々…。ふいに手に入れた宝物を手放したくないが故、認知もされない悩ましい葛藤と向き合い続ける日々だった。
 
 産めない可能性が高いのに私は我が子の成長が気になり、掛け持ちで複数箇所の病院に通っていた。保険適応外のため、受診料は1回あたり最低1万円はかかった。血液検査などがあれば、さらに費用はかさんだ。けれど私は心拍を見たくてエコー写真がほしくて、足繁く通っていた。中絶を考えていることを伝えると、積極的には胎児の成長を見せてもらえないため、まだ迷っていると伝えることが多かった。実際、迷っていたのだから仕方ない。成長を見ればみるほど、もし中絶となったら別れがつらくなると分かっているから見せるのをためらう医者もいたけれど、私はたとえお別れすることになったとしても、我が子の心拍を感じられたことを忘れたくなかったし、写真もなるべくたくさんほしかった。一緒に生きられない可能性が高いからこそ、我が子が生きていた証を残したかったのだと思う。子どもの写真ばかり撮りたがる親たちの気が知れなかったのに分かるようになってしまった。我が子の写真なら何枚でもほしい。そんなに親しくもない同級生からエコー写真を見せつけられて、引いたこともあった自分がまさか親心が分かる日が来るとは…。この頃になるとエコー写真を眺めながら、おなかに手を当てて「おはよう」「おやすみ」と話しかけてしまうほど、私の親馬鹿ぶりは甚だしくなっていた。
 
 妊娠が判明した6週目はまだたった2ミリで心拍の点しか見えなかった子は、8週目に差し掛かると1センチを超え、8週5日目になるときれいな二頭身の姿にまで成長していた。その頃には自動的に出産予定日も明記されるようになっていた。仕事も手につかずに、苦悩しながら泣いていた2週間のうちに、この子はこんなにも劇的に成長を遂げているのかと思うと、順調な成長ぶりがうれしくもなり、たのもしく思えた。母親が不安定なメンタルで生きていても、この子は何食わぬ顔でただ生まれるためだけに必死に生きようとしているんだと思うと、また涙が零れた。どうしてこんなに生きようとしている子を守れないんだろう、始末することを考えなきゃいけないんだろうと自分が情けなくなった。この子の命を育めるのも、守れるのも私しかいないというのに…。
 
 もしも中絶希望なら9週目に入る前までの方が費用は抑えられ、母体の負担も軽くて済むと告げられていた病院から、中絶同意書をパートナーにも書いてもらうように渡されていた。その同意書にサインしてもらうために、久しぶりに彼と会った。
「病院、やっと決まって安心したよ。」
注意事項に目を通した彼は躊躇する様子もなく、名前や住所を記入し、押印した。そして、少ないけど費用の足しにしてと僅かばかりのお金をくれた。
 
 私はとても書く気にはならず、そのまましまった。すると彼は
「ひさしぶりだし、体調悪くないなら、やらない?」
と誘ってきた。女性ホルモンの影響か性欲はまだ衰えていなかった私は、その誘いに応じた。
「俺の精子が透子を孕ませたと思うと興奮するよ。今、透子の子宮の中には俺の子がいるんだね…。」
なんて相変わらず、彼の身勝手な性欲も衰えてはいなかった。
「中絶より流産の方がマシ…。流産なら生きる力がなくて死んでしまったんだと割り切れるもの。殺すのと死んでしまうのとでは全然違うよ…。」
彼に身を任せていた私は、そんなうわ言を吐いた。
「じゃあさ…流産するように、少し強めに奥を突こうか?閉じている子宮口にしか届かないし、子宮を揺らす程度しかできないけど、衝撃を与えればそうなるかもしれないし。」
なんて言い始め、私の奥を深く突いた。
「痛っ。いつもより苦しいから奥はやめて。」
そのまま突くことを続けずに、奥はやめてくれたのはどうしようもない彼なりのやさしさだったのかもしれない。
「ごめん、浅くやさしくするから。」
彼はもはや妊娠する心配のない私の膣内に安心してまた精液を注ぎ込んだ。
 
 その翌日…。生理の始まりのような不正出血があり、昨日セックスしたせいで、本当に流産してしまったかもしれないと、私は慌てて最初に行ったきりでやさしい先生のいる最寄りの病院へ向かった。
「生理みたいな出血があって…。」
私の言葉を聞き、顔色を変えた医者は
「流産の可能性もあるから、確認するね。」
と言い、内診してくれた。
「2週間前と比べたら、だいぶ大きくなったね。心拍…ちゃんと動いてるよ。良かったね。ほら、ピクピク動いてるの見えるでしょ?」
最初の日と同じように先生は私に一生懸命、心拍を見せてくれた。
「はい…見えます。良かったです…。」
中絶を控え、同意書まで用意したというのに、この期に及んで私は心から我が子が無事で良かったと思ってしまった。嘘ではなく、本当に。
「鮮血だと危ないんだけど、茶色に近いくすんだ血なら、時々不正出血として出る場合があるから。出血はないにこしたことはないから、気をつけてね。妊婦健診の病院は決めたのかな?がんばってね。」
「おめでとう」と言ってくれた先生に、中絶の段取り中なんて言えるわけもなく、2センチ以上にまで成長した我が子のエコー写真をもらって、逃げるように病院を後にした。
 
 流産を期待する愚かな親たちが激しくセックスしても、この子は流れることなく、生きていた。なんてたくましい子なんだろうと思った。どうしようもない親でも、強い子なら生きていけるかもしれない。産んであげれば、どうにか生きていけるのではないか。無責任な発想だけど、里親に託す制度だってあるし…。でも産んでしまったら、簡単に手放せるわけがない。今でさえこんなに愛しいのに、離れられるわけがない。となると私はダメなシングルマザーのまま、この子と二人きりで生きようとして追い詰められ、産んだ後にこの子に手をかけてしまう場合もある…。そうなったら、愛する我が子に申し訳ない。安易に産んで、そんなつらい思いをさせるくらいなら、やっぱり認められている今のうちに中絶すべきなんだろう…。
 
 2月10日、本来は8週5日目に当たるその日に、中絶手術の予約をとっていた。胎児の大きさで週数や日数が変わるらしく、前日の時点で9週2日目相当の子になっていた。つまり当日はすでに9週3日目だった。
「自分の心臓を止められるより、嫌なんだけど…本当に今日行かなきゃダメかな…。」
手術日を知っていた母からその日の朝、電話がかかってくると、一睡もできなかった私はそんな戯言を吐いていた。大袈裟な冗談ではなく、本音だった。
「何言ってるの、今日のうちに必ず、実行しなさいよ。」
最後の悪あがきも母には通用しなかった。仕方なく、重い足取りで病院へ向かった。我が子の心拍を止めるために。

(※本文はちょうど1万字です。)

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