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年末のご挨拶 2023 冬(追記あり)

新しい太陽に輝く露は美しい、のは本当です。
何年か前の、とある冬の早朝。

季節のご挨拶というよりは読み物集になっているのは、『はと子劇場』にと書いたものや、ちょこちょこ書きためたものを集めて投稿しているからです。
 
公園の池に足の生えおたまじゃくしが山ほどいましたが、夏が終わるや否やあっという間に姿を消しました。冬眠に供えていたのでしょうが、ずいぶん長いこと生やしていた尻尾をそんなに急に引っ込められるものなのかと驚きました。引っ込んだことにしてやむなく陸に上がったのだろうか、まあうまいことやったんだろうと池を見渡しましたが、答えてくれそうなカエルは一匹もいませんでした。


冬の朝

引き出しから着替えを引っ張り出す。
あれはこっちから、これはそっちからと、せっせとヒーターの前に集める。かざして温め、シューシュー言いながらさっと着替える。ここまで一気にやってしまえば、その日一日うまくまわる。
そのまま外に出て歩き始めれば、ウォーキングも終わる。
モーニングルーティンなどと気張らずに、終わらせてしまえばいいだけだったりする。寒い冬は特にそう。暑い夏もそう・・・・・・かどうかは今夏のような猛暑となると何とも言えない。

読まなかった詩集

図書館の受付で取り寄せ依頼をしていた詩集を受け取った。
順番待ちをしてようやく回ってきた詩集だった。
大きく開いた窓の前のカウンターに移動して、ぺらぺらとページをめくり、いくつか読んだ。窓の外で風が吹いたのか、木立こだちの脇のベンチで目を細める老夫婦に落ち葉が降り注いでいる。
 
詩集を閉じた。
図書館を出て、返却ポストに借りたばかりの詩集を入れた。
舞い散る落ち葉に、一体どの木から落ちてくるのかと見上げると、木漏れ日が眩しかった。先ほどの老夫婦もそうだったのかと気づいた。
小さな葉はくるくると回りながら、大きな葉はぼたっと落ちてくる。
長い石段をあがり始めると、落ち葉がカラカラと乾いた音を立てながら降りてきた。我先にどこかに収まろうとでもしているのか、そんなに押すなと風に文句を言っているのか。
続いて保育園のお散歩集団も降りてきた。
こちらも負けず劣らずにぎやかである。
そのうち何人かが、手と同じくらいの大きさの真っ赤なモミジを手にしていた。
きれいなお気に入りを拾ったのだろう。
どうかその気持ちを忘れないでほしい。
いや、中高生くらいになったら一旦忘れてもいいから、そのあとまた思い出してほしい。
そんなことを思ったが、心配など無用かもしれない。
自然にはその力がある。
任せておけばいいのだ。
 
大きく息を吸った。
昨日降った雨のせいか、草のいきれは春の日のようだった。
「やっぱりこっちだな」
何も持たずに帰路についた。

インスパイアする感性

現在見直し中の短編小説『丘の上に吹く風』の連載終了後、『あとがきにかえて』として『倒木』という詩を投稿した。つまりひっそりと詩人デビューまで果たしていたのだが、何しろすでに倒れてしまっているわけで、人は『倒木』で鮮烈デビューなどできないのだ。
その頃のこと、せっかくだからと世のレジェンドの詩を読んでみることにした。詩人と言えば中原中也さん、立原道造さん、銀色夏生さんあたりしか知らなかった私は、一旦アマゾンの詩集ランキングを参考にすることにした。その週のベスト3は、長田弘さん、茨木のり子さん、金子みすゞさんの順だった。

早速図書館で借りて読み始めた。
中でも、私はみすゞさんの感性に脱帽した。触発もされた。そして可愛らしいとも思った。童謡になっている作品もあるからか、五七調、七五調、七七調で書かれているものが多く、調子のよさ(リズム感のよさの意)もある。

みすゞさんの詩にはとにかく触発する力、つまり読み手をインスパイアする力があると思う。ドナドナを彷彿とさせる『仔牛べえこ』という作品を読んで、私も『仔牛こうしの目』という詩を書いてしまった。こういったことをオマージュ、トリビュートと言うのだろうが、勝手に書かれた上に捧げられたところでみすゞさんも迷惑だろうし、いささかヒリヒリした内容のため発表する予定はない。

さて、詩には没入型、触発型、その両方の要素を兼ね備えた混合型があるように思う。前者で読み手はその世界観に浸り、自分を重ね合わせるなどしながらどんどん引き込まれていく。後者は読み手のインスピレーションを刺激し、読み手から更なる創造を引き出す。
触発型については、作者も意図せずそうなっていることが多いように思う。意図せぬものにあらがうのは容易ではない。抗する準備もないうちに気づいたらやられているわけだから。
みすゞさんの詩の凄さはそこにあって、しかもおそらく混合型だろう。『仔牛』について言うならば、読み手はかなしき仔牛、またはそれを見つめるしょぼくれびと、あるいはその両方となる。



ここで10分間の休憩をお取りください。
トイレに行ったり、お茶を淹れたり、気を取り直したりして席にお戻りください。

粗茶ですが。
お団子もどうぞ。



宇宙のカケラ

理学博士であり、北海道・美宇(MISORA)天文台の台長を務める佐治晴夫先生も、みすゞさんに心酔する一人のようだ。なんと冷静沈着とおぼしき佐治先生でさえもみすゞさんの詩にインスパイアされ、みすゞさんの『鯨法会くじらほうえ』と『葉っぱの赤ちゃん』という詩に曲をつけたとのこと、(注1)草葉の陰の物書きモドキ(私)が『仔牛』にインスパイアされて詩を書いてしまったとしても、なんら不思議はない。
最近佐治先生の著書を二冊ほど読んだ。ここでは簡単な紹介にとどめたい。
 
注1 楽譜は後述の『詩人のための宇宙授業-金子みすゞの詩をめぐる夜想的逍遥しょうよう』に掲載されている。

宇宙のカケラ – 物理学者、般若心経を語る』佐治晴夫

『宇宙のカケラ』という題名は、東急電鉄の無料月刊情報誌『SALUS』で2016年から連載されている『理学博士・佐治晴夫の連載エッセイ・宇宙のカケラ』からとったもので、同連載から一部転載して本著としたとのことだ。『SALUS』については、数か月前に駅の改札で見つけ、何げなく手に取って知るに至った。その時掲載されていたエッセイには、下記茨木のり子さんの『小さな渦巻』という詩の一節が引用されていた。少し前に茨木さんの詩集を読んだこともあり、不思議な巡りあわせにその日SALUSを持ち帰った。

ひとりの人間の真摯しんしな仕事は
おもいもかけない遠いところで
小さな小さな渦巻をつくる
 
それは風に運ばれる種子よりも自由に
すきな進路をとり
すきなところに花を咲かせる

『小さな渦巻』の一節。SALUS 2023年8月号『宇宙のカケラ Vol.89』より

小さな世界。いいですねぇ。
本著ではみすゞさん以外にも、まど・みちおさんや宮沢賢治さんの雨ニモマケズも引用されている。巻末の参考図書を読んで好みの詩を探ってみるのもいいかもしれない。

詩人のための宇宙授業-金子みすゞの詩をめぐる夜想的逍遥しょうよう』佐治晴夫

本著では、佐治先生がみすゞさんの詩を科学の視点で解きほぐしている。中でも『つゆ』という作品は、私が常々表現できないものかと思っていた小さな世界をさらっと詩にしてしまっていた。あまりにもさらっと、しかもずいぶん先にだ。
しかたない。
もうほとんどやり尽くされて耕しようがないなどと愚痴ったりせず、後続組こうぞくぐみとして地味にやっていこうと思う。

もういっちょ朝露。
なんとこのアシについた朝露の様子もすでに作品にされているようです。
いつか朝焼けの時間に訪れたいものです。
箱根ガラスの森美術館

さて、『露』で書かれているのは誰も気づかないような小さな世界の出来事だが、私が説明するよりも載せてしまった方が手っ取り早いためそのまま載せることにする。

『露』

誰にも言わずに
おきましょう。
 
朝のお庭の
すみっこで、
花がほろりと
泣いたこと。
 
もしも噂が
ひろがって、
蜂のお耳へ
はいったら、
 
わるいことでも
したように、
蜜をかえしに
ゆくでしょう。

『詩人のための宇宙授業-金子みすゞの詩をめぐる夜想的逍遥』より

またしても小さな世界。
むしろそこに宇宙を見るということだ。平たく言うと小宇宙Microcosmのことだが、佐治先生がみすゞさんの詩に興味を持った理由はみすゞさんのこの世界観(宇宙観)なのではと推測する。
小さな世界かもしれないが、それでもちゃんと世界なわけで、そこには物語もある。それをこれ程少ない文章で、しかも終始七五調で表現してしまうとは凄いとしか言いようがない。思わず一句詠んでしまう習性の私は、こういうところに「おお!」と思う。
佐治先生は、この詩の情景を「朝露に新しい太陽が当たるとプリズム効果で美しい」と表し、一番美しいのは花と朝露の風景だとも言う。
 
やだ、先生。気が合う。
確認の必要などないことなのでしょうが、雨上がりの花もそれはそれは美しいもので。
 
と、同意を求めようにも先生は遥か彼方の北の大地。もしかするとご自宅のアトリエのほうだろうか。どうやらアトリエの庭先では、時期になればラベンダーとマーガレットが咲き誇っているとかなんとか。なんと庭先には天文台もあって、初秋にはダイヤモンドがはじけているような真昼のヴェガ(おりひめ星)を見上げていらっしゃるとかなんとか。もうこうなったらテレパシーを送るしかなかろう・・・・・・などと書いても実際に送ったりはしないわけだが、粋なnoteユーザの皆さんにはそんな説明は必要なかろう。
 
佐治先生はこの「露」というものをアインシュタインのかの有名な公式、E=mc²を採用して解説している。みすゞさんはなんと力強い後押しをされたことだろうか。どこかで喜んでいるのではないかと思う。科学の分野を突き詰めた方々が、科学とそれ以外の分野との融合を図ることは本当に心強い。と同時に、むしろ突き詰めるとそういった境地に達するのかもしれないとも思う。どういった境地かというと、不思議と言うしかないような諸事に遭遇し、あれこれ考えた末に行き着く先は森羅万象で、それを認めざるを得ない状況、とでも言えばいいのだろうか。深遠だ。
 
佐治先生の著書を読んでいると、わざわざ宇宙へ行こうとする人の気持ちが分からなくなってきたりもする。すでに宇宙にいるのだから行く必要などないという解釈もできるからだ。
 
両手で水をすくうような形を作る。
そこも宇宙だ。
 
佐治先生はこれを「手の上の宇宙」と言っておられる。いや、手の平だったか。あれ、先生の別の著作で読んだことだったか。
もう本は返却してしまったから、調べる術がない。

追記:
念のために書いておくが、「手の上の宇宙」云々の件で、佐治先生は宇宙開発を否定してはいないし、宇宙に行く必要などないと言っているわけでもない。こういった考え方もあって、違った見方もできますよね、すると心持ちもいい方向に変わったりしますよね、のような前向きなご提案であったと記憶しているからして、くれぐれも誤解のなきよう・・・・・・なんてことも本来なら書く必要もないのであろうが、せっかく紹介した本や著者が誤解されるのは不本意なため追記した。
とにかく実際に著書を手に取って、先生の言葉で理解するのがベストだろう。

今年を振り返って

noteを開設したのは、ちょうど昨年の今頃でした。
何の因果か書き始めたフィクション小説の投稿先ということで、平和そうなnoteを選びました。平和なくして創作は難しいですから。
小説はショートショートも含めると全部で七作発表しました。うち一作目は見直し中、二作目は掲載終了という駆け出しにありがちな展開をみせております。ただ、毎回やりきっているからでしょうか、すっ転びまくっている割にさっぱりとした気持ちだったりします。
一作目は小説の基本的なことさえ何も知らずに書いたので、その辺りの見直しと、ノイズ除去をします。おそらく章ごとバッサリ落とすところも出てきます。書く前に小説の書き方など色々調べていたら、書くことさえしていなかったと思うので、これはこれでよかったと思っています。だめならやり直すだけです。以上、です。
『はと子劇場』とその他企画は広げ過ぎたので縮小しつつ、頻度を落とすことにします。
 
note以外に始めた事としてMediumがあります。
最初はHatoko Uruwashinoで始めましたが、今は別のペンネームにしています。昔の名前で出ています状態とでも言うのでしょうか。
Mediumの第一印象は、記事が面白い、です。これはアルゴリズムがうまいことやってくれているようです。それから、オープンで大人の空間だとも思いました。
Mediumのほうがホーム寄りな気がするのは、単に私がアウェイ戦のほうが得手だからかもしれません。むしろアウェイな状態のほうがホームな気がするというか、要は変わりモンWeirdoということです。
そしてありがたいことに、そんな私のサイトも健やかな成長をしています。爆発的ではなく淡々とフォロワーが増えているという意味です。私にとって、目途がつくとはこういうことです。
長くなるので、Mediumについてもまたの機会に。


ここでまたまた休憩をお取りください。
体力勝負の様相を呈してまいりました。
これはおそらく文系の体力が試されているのです。

洋風のお茶もいいですね。
ショートブレッドもどうぞ。腹持ちのいい全粒粉です。



能の先生の教え


能の稽古場には、鏡板(かがみいた)と呼ばれる背景に松が描かれた舞台がありました。
あったのですが、前に座っていた方の鳩サブレの紙袋が気になってしまいました。鳩なんで。

今年は生まれて初めて能を観ました。
夜桜が舞い散る月夜に神社の境内で演じられる能はある種異世界でした。その後出演されていた先生が企画する体験会に申し込むという謎の積極性を発揮するほど、酔いしれる要素が多過ぎました。体験会ではなんと舞台に上がらせていただき、舞えるわけもないのに舞いました。『鶴亀つるかめ』という演目の最初の一節でした。
能は敷居が高いままでもいいのではないかというのが本音ですが、ありがたい体験をさせていただきました。
 
体験会で一つ教えていただいたことがあります。
謡曲十五徳』という、能をたしなむことで得られるとされる15の知識とその効用についてです。その場所に行かずとも行った気持ちになる、老いてなくとも故事を知る、恋せずして誰かを想う等々、フィクションを書く上でも大いに役立つことが書かれています。実際、私は今回の体験会で飲めない酒を扇子ですくい、飲んだつもりになったりしたわけですから。
フィクションとなると、訪れることのできない場所、ありえないような事、実在しない人物についても書くわけですから、行ったことも、見たことも、経験もないから書けないのであれば、SFやファンタジー、時代小説など書くことができなくなってしまいます。また、行ったこともないくせに何言ってんだ、見たこともないくせに何で分かるんだ、やったこともないくせにそれっぽいこと書きやがって、などと言うのはヤボというものです。人には想像力というのがあって、それが発されてから収束するまでのあり様や程度は人それぞれでもあるわけですから。(注2)
そういったわけで、今の時期は遠慮なく行ってもいないクリスマスマーケットでグリューワインを飲んだ気になったりしています。
 
実は体験会の当日、ちょっとしたハプニングモドキがありました。
参加者は足袋または白い靴下持参ということだったので、私は三足セットの五本指ショートソックスを準備していました。当日、席について靴下を履き替える段となり、唖然としました。両方右足用を持ってきてしまったのです。どれとどれを組み合わせようかと、選んだりしたのが間違いでした。
無理やり履きました。
そのまま舞台へも上がりました。
そして誰にも気づかれませんでした。
人は人のことなど大して見ていないのです。こうなるともはやハプニングモドキでもなくなるということです。
実質ノーダメージなため、めでたしめでたしというわけです。
ついでに足も二度ほどつりましたが、それも気づかれませんでした。
先生は気づいていたかもしれませんが、足が痺れたりつったりする生徒さんには慣れっこなようでしたので、これも実質ノーダメージでした。 
 そんなものなのです。

皆様におかれましては、『鳩子劇場 Xmasスペシャル 豪華二本立て』とクリスマスソングでホリデーシーズン気分を味わっていただき、よいお年をお迎えください。
 
年が明けましたら、『続・丘の上に吹く風(仮題)』が始まります。
どうぞお楽しみに。
 
 
ここで今年最後の一句
 
松濤しょうとうと 鶴亀踊る 靴下ずれる
 
バレはしませんでしたが、靴下は脱げそうではありました。
 
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注2 つい数週間前のこと、この辺りのことを発散的思考、収束的思考とし、創作時にはこれらを反復させていたりすることを知りました。現代人がこの話をすると、そこはかとなくアジャイル感が漂ってまいりますが、noteでも書いている方がいるので詳しくはそちらでどうぞ → 発散的思考と収束的思考
 
私の場合で言うと、以前に書いた
 
書く → 熟成させる(しばらく放っておく)→ 見直す
 
というサイクルがこれにあたるようで、
 
書く(発散的思考)→ 熟成させる(しばらく放っておく)→ 見直す(収束的思考)
 
となり、これをひたすら反復しているということらしいです。たぶん。
 
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潜っても 潜っても 青い海(種田山頭火風)