後醍醐天皇

三浦芳聖伝 2、尊良親王の再現(串呂哲学研究ノート№114)

二、尊良親王の再現

1、三浦芳聖の母「元子」の悲願

後醍醐天皇第一皇子「尊良親王」は嘉元2年(1304年)甲辰年(陰暦8月8日)のご降誕で、その第二皇子「基良親王」の嫡孫河合家では、尊良親王ご降誕6百年記念の明治37年(1904年)甲辰年に、そのご真体が再現すると伝承されて来たという!

三浦芳聖の母「元子」の悲願とは、尊良親王ご降誕6百年記念日である、明治37年(1904年)甲辰年9月17日

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【第一回】 鎌倉幕府への反感「後醍醐天皇」 [歴史発想源/武心の大道・建武争乱篇]

現在『ビジネス発想源 Special』の「歴史発想源」では、室町幕府初期を舞台とする「信義の経国・室町幕政篇」を連載中です。

そこで、この「トップリーダーズ」では、その前日譚となる「武心の大道・建武争乱篇 〜新田義貞の章〜」の前半部分を期間限定で掲載いたします。

「室町幕政篇」を理解する上で、「建武争乱篇」を一緒に読めば、複雑に入り組んだ南北朝時代がより分かりやすくなるでしょう。

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【皐月】北畠顕家上奏文

はや5月に入る。皐月は北畠顕家卿が和泉阿倍野で戦死した月。その死の直前に顕家卿が後醍醐天皇に送った「北畠顕家上奏文」七箇条は二十歳の奥州鎮守府将軍が南朝治政の腐敗を痛烈に諫めた決死の書。死を覚悟した二十歳の俊英による後醍醐天皇への命懸けの諫奏文。南北朝正閏論は明治政府により南朝正統と決定。ならば自民党安倍政権も今こそこの書を読み襟を正されたい。‬そして我々尊王派も然り。

消えたツクヨミの謎と秦氏の正体

1.ツクヨミはどこに消えたのか

日本神話では、日本を生んだ神であるイザナミ、イザナギ夫婦の三人の子供アマテラス、スサノオ、ツクヨミを重要な神として三貴神と呼んでいるが、ツクヨミに関しては不自然なほど記述が少ない。

世界各地の神話において、自然や惑星に対する信仰が根付いており、日本神話は現在の天皇家の祖先である太陽神アマテラスを崇めており、陰陽の関係に当たる月信仰は定着しなかった可能性がある。

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後醍醐天皇は一代主であった

後醍醐天皇と花園天皇は、一代主という同じ立場にあった。

花園天皇と醍醐天皇は嫡流の兄の弟で、嫡流の兄の子供に皇位を伝えるためのワンポイントリリーフの天皇なのである。後醍醐天皇が自分の子孫に好意を伝えたかったように、花園天皇も自分の子供に皇位を伝えたかったかもしれない。けれども、自分のそういう気持ちを押し通すと大混乱が起きる。

鎌倉幕府と持明院統と大覚寺統が完全に合意したかどうかに疑問が残るとは

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高校日本史 室町時代

「社会人のための高校日本史」は、高校の日本史をベースにして高齢者大学の日本史講座向けに作り直した動画です。このシリーズは室町時代。南北朝の争乱から室町幕府・応仁の乱を経て戦国時代まで時系列になっています。

後醍醐天皇は、両統迭立を克服し新たな正統を作り、宋を模範にした天皇親政の樹立をめざした。それは、鎌倉幕府・持明院統・大覚寺統の邦良親王などと対立する困難な道であった。幕府打倒に成功したものの建

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和田について

1、和田について

「和田」は、松良天皇の串呂上の符号。

和田が松良天皇の串呂上の符号であることは下記を参照ください。
藤原石山著『三河に於ける長慶天皇伝説考』(南朝史学会、1979年、64頁)には、長慶院法皇・松良天皇の「三河玉川御所」が、豊橋市石巻本町の和田地内に存在したことを考証している。

また、当時、長慶院法皇・松良天皇を奉戴していたのは、千種忠顕の子孫「青木和田尉盛勝」であることも記

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義貞自害事(『太平記』巻20の9)

1、口語による書き下し文(一部)

朝敵征伐の事、叡慮の向う所、偏に義貞の武功に在り、選んで他に求めず、殊に早速之計略を運(めぐ)らすべき者なり。

2、義貞自害事

燈明寺の前にて、三万余騎を七手に分て、七の城を押阻て、先対城をぞ取られける。兼ての廃立には、「前なる兵は城に向ひ逢ふて合戦を致し、後なる足軽は櫓をかき屏を塗て、対城を取すましたらんずる後、漸々に攻落すべし。」と議定せられたりけるが、

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宸筆の勅書義貞に下さるる事(『太平記』巻20の3)

1、口語による書き下し文

日を経て越後勢、已に越前の河合に著きければ、義貞の勢弥(いよいよ)強大に成りて、足羽城(あすはのじょう)を拉(とりひし)がん事、隻手(せきしゅ)の中(うち)にありと、皆掌(たなごころ)をさす思いをなせり。げにも尾張の守高経(たかつね)の義を守る心は奪いがたしといえども、纔(わずか)なる平城(ひらじょう)に三百余騎にて楯篭り、敵三万余騎を四方に受けて、篭鳥(ろうちょう)の

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楠木正成の大義に生きる人生

楠木正成といえば、鎌倉時代末期から南北朝時代にかけての武将(1294年~1336年)で、後醍醐天皇を奉じて、鎌倉幕府打倒や建武の新政に貢献した立役者である。「太平記」によると、楠木正成の居城である千早城で兵糧攻めに遭(あ)い、幕府軍に包囲された時も城外の民衆や山伏、修験者を味方にして秘密の間道を使って敵の情報や物資を運んでいました。わずか1000騎の楠木軍で数万の幕府軍との戦いに勝ち続けてこれたの

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