【旅日記】3/16 初めての吉野行き
「仮にも南北朝〜室町時代マニアで、奈良に住んでいるのに、今まで一度も吉野へ行ったことがないというのは、いみじきざまではないのか?」
「そなたはひどいモグリじゃの」
夢枕に立った北畠顕家公と楠木正行公がそうおっしゃるので、吉野へ行ってみることにしました。
ところが参道(?)が、歩道もない急勾配の連続ヘアピンカーブという予想以上の難路。
時間の都合もあるので、先に吉野駅へ行っておこうと途中で引き返しました。
ところが(本日二回目)クレカもICカードも使えず、ケーブルカーに乗るための現金が足りないというありさまに…
(柿の葉寿司を食べたからというのは、南朝の忠臣の方々には内緒です)
「自分は別に、細川政元みたいな修験者でも、蔵王権現の信徒でもない! 後醍醐院にご挨拶へ伺いたかっただけだもんな!」
と素志を思い起こし、改めて吉野神宮駅へ。
閉門ぎりぎりの時間になりましたが、宮司様にお声をかけていただき、しばしお話をさせていただきました。
ご祭神である後醍醐天皇様をとても大切に思っていらっしゃる、有難いお話でした。
桜の季節はまだまだで、下千本にすら到達できませんでしたが、後醍醐天皇のもとへお参りすることができてよかったです。
私は、足利尊氏も個人としては後醍醐院を敬愛していたし、終生大恩を感じていたと思っています。
天龍寺のあの凛とした美しさを見れば、そこに深い思慕がなかったとは、とても考えられません。
それは息子の足利義詮が、自分の墓を好敵手・楠木正行の隣に立てさせ、今でも宝筐院でともに眠っているのと相通ずるところです。
天皇の一字を拝領する、というのは破格の恩賞ですし、私は寡聞にして、尊氏以外にその例を知りません。
始祖が他でもない帝の偏諱を賜っていた、というのが、足利将軍の不思議な権威の一部を形作っていた、とさえ考えています。
南北朝の対立、というのは、多分に政治的な要素を含んでしまいますが、イデオロギーで決めつけてしまったのでは、楠木父子を死地へ追いやった公家たちとまるきり同じです。
実際に生き、戦い、死んでいった彼らの心、というものにできる限り思いを馳せ、そこに寄り添っていきたい。
少なくとも小説を書きたい、と思っている人間として、それだけは守っていこうと改めて決意しました。
おしまい。
神にも逆らい 戦い続ける 不屈の魂たちよ
エンディングテーマ 「Fighting Gold」Coda
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