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批評になると対象を決めてどこかしら否定要素を 入れなくてはならないわけです。中立論で書くと両論併記になるからです。 ただその否定要素というのは書き手の審判や断罪が文章の構造上どうしても入ってしまいます。これが私の文章の場合何らクッションもなく連続で記述される文章が多かったと思います。ゆえにこちらにその意図はないのですが罵詈雑言だと捉えられたと思います。 逆に云えば両論併記を避けるために 連続否定要素を取り入れ文章を構成していました。 私の記事スタイルはネットに暗躍する自
平安時代の学習を深めていきます。 本日の学習は、 ①屋島の戦いに敗れた平家軍は関門海峡に面する壇ノ浦(山口県下関市)に追い詰められた。この地が平家にとって最終決戦の舞台となった。②1185年3月の朝に開戦した。義経ら源氏の軍勢は関東から来た三浦氏の水軍、紀伊国(和歌山県・三重県南部)の熊野水軍、瀬戸内海の河野水軍など西国の有力船団を味方とした。 ③海戦を得意とする平家は交易に使う大型船に安徳天皇らが乗っていると見せかけて囮にした。軍船から弓を射って源氏の軍船を近づけまい
MA・DA・RA(魍魎戦記MADARA)
First Step Towards Wars(イースⅠ・Ⅱ)
平安時代の学習を深めていきます。 本日の学習は、 ①頼朝は鎌倉に留まって派遣した義経らに指示を送りつつ朝廷との交渉や関東の武士の組織化に集中していた。頼朝は親族である範頼・義経らに東国の兵をあまりつけなかった。 ②頼朝の家臣となった武士たちは御家人と云われて領地の支配権を保証される御恩と引き換えに忠誠を誓って主君のために戦う奉公という主従関係が築かれた。 ③頼朝はこの関係をベースに自身を中心とする関東武士の組織固めを優先させた。組織には関東武士たちの人事や法務を司る侍
Baby Face(Brian Hyland)
リムサリア戦(カードマスター リムサリアの封印)
平安時代の学習を深めていきます。 本日の学習は、 ①義仲の直属の兵は少なかったが都に進軍するうちに近江源氏や美濃源氏なども加わった。しかし忠実とはいえなかったので平安京に入ると略奪や暴行を引き起こした。 ②平家を追放したが貴族らは義仲を無法者とみなした。それ以前から撤退する平家が建物を放火して僧兵が暴れていたので義仲だけの問題とは言えない。義仲は人望を失って行家は離反した。 ③平安京に入った時に義仲は官職がなかったが皇位継承について意見して北陸宮の天皇への即位を訴えた
恋は水色(ポール・モーリア)
平安時代の学習を深めていきます。 本日の学習は、 ①各地で挙兵した反平家勢力の1人である源義仲は河内源氏に属して頼朝の従兄弟である。乳母の夫で信濃国の豪族だった中原兼遠のもとで育てられた。 ②義仲の愛した巴御前は兼遠の娘とも云われている。頼朝と義仲は源氏の主導権を争うライバルであった。頼朝と対立した叔父の行家と義仲が手を組んだ事で軍事衝突が起こりかけた。 ③交渉の末に和睦をした。1183年(寿永2年)3月に義仲の長男の義高が人質として鎌倉へ移って頼朝の長女の大姫と婚約
平安時代の学習を深めていきます。 本日の学習は、 ①富士川の戦いのあとに美濃国(岐阜県南部)や近江国(滋賀県)など 畿内周辺で源氏に属する武士が平家打倒に決起した。 興福寺や園城寺なども同調した。 ②平家側は反撃して興福寺を始めとする奈良の有力寺院を焼き討ちした。この時に東大寺の大仏殿は焼け落ちたと云われている。 各地の反乱に対応するために清盛は都を福原京から平安京に戻した。③1181年(治承5年)1月に高倉上皇が病のために急死した。朝廷では後白河法皇の影響力が再度高
平安時代の学習を深めていきます。 本日の学習は、 ①清和源氏に連なる源(木曾)義仲は信濃国(長野県)で平家打倒に立ち上がった。甲斐国(山梨県)を地盤とする甲斐源氏のリーダーの武田信義も頼朝に同調した。 ②清盛は後白河法皇から頼朝ら東国の反平家勢力を討伐してほしいという宗の院宣を得た。孫の平維盛を総大将とする2万もの軍勢を派遣した。清盛の末弟の忠度が補佐した。 ③忠度は武人のみならず『新勅撰和歌集』『玉葉和歌集』に詠んだ和歌が収録されるなど教養もあった。平家の本拠地の福
平安時代の学習を深めていきます。 本日の学習は、 ①平安時代末期の一連の争乱は源平合戦と呼ばれているが正確な表現とは言えない。頼朝側についた北条時政、千葉常胤、上総広常らは桓武平氏に連なっている。 ②しかし桓武平氏の成立は9世紀でありそこから300年以上の歳月が流れており関東に土着した平氏の子孫と伊勢平氏として都で地位を築いた清盛らとは別系統である。 ③源氏と平氏は平安時代末期まで友好関係が多く見られている。11世紀に起こった平忠常の乱を平定した源頼信は子の頼義と討伐
生物どうしが食べる、食べられるの関係で 繋がっている。これが食物連鎖である。 植物プランクトン⇒動物プランクトン⇒小型魚⇒大型魚 光合成でデンプンなどを作り出す植物を生産者、 植物を食べる草食動物や草食動物を食べる肉食動物を消費者という。ピラミッドの底辺は必ず生産者の植物となる。 菌類や細菌類、落ち葉や動物の死骸などを食べる土の中の 小動物が分解者である。 生態系の炭素は光合成や食物連鎖、 呼吸などによって生産者、消費者、分解者の 間を受け渡されながら循環している。
平安時代の学習を深めていきます。 本日の学習は、 ①平家打倒を唱えた以仁王の令旨が各地に伝わり、1180年(治承4年)8月に源義朝の嫡男の頼朝が挙兵した。平治の乱で伊豆国に流刑された後に蛭ヶ小島(静岡県伊豆の国市)で約20年を過ごして国司に仕える地方豪族の北条時政の娘の政子を妻とした。 ②頼朝は大軍を指揮した事はなく直属の家来はほとんどいなかった。乳母の親族で朝廷に仕えていた三好康信から宮中と平家の動向についての情報を得ていた。関東の武士たちの後押しがあった。 ③頼朝
太陽とそのまわりを公転している惑星、 惑星のまわりを公転している衛星、多数の小惑星、 太陽系外縁天体、彗星などの天体などの集まりを太陽系という。 太陽に近いものから水星・金星・地球・火星・木星・土星・ 天王星・海王星がある。 地球型惑星は水星・金星・地球・火星 木星型惑星は木星・土星・天王星・海王星である。 金星は地球より内側の太陽に近い軌道を公転するので 満ち欠けをする。地球からは明け方東の空(明けの明星)か 夕方西の空(よいの明星)にしか見えない。真夜中には見えない