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🔶私の好きな奈良:吉野神宮 南朝正統論が高まり明治に創建された官幣大社

タイトルの写真は、奈良県南部の吉野町にある吉野神宮の拝殿です。この奥に本殿があります。
8月のある日、お昼前に撮った写真ですが、何か気が付くことはないでしょうか?
光の当たり方とか、影の具合とか…

夏の太陽が建物の背後から射し、逆行気味の写真となっていますね。
ふつう、神社や寺院ではあまり見ない光の当たり具合です。

そう、多くの寺社では本殿が南あるいは東向きに建っているのに対し、この神社の本殿は北向きに建っています。
主祭神である後醍醐天皇が、京都のある北を向いているからです。

吉野という地について

吉野と言えば、桜の名所ですね。
世界遺産「紀伊山地の霊場と参詣道」として、吉野山は山全体が登録されており、吉野水分神社、金峯神社、金峯山寺、吉水神社などの建造物も構成資産に指定されています。

山紫水明で、人智を超えた力を持つパワースポットとしての魅力があった様で、古くから、歴代の天皇が行幸された記録が残っています。
応神天皇、雄略天皇、斉明天皇、天武天皇、持統天皇、文武天皇、元正天皇、聖武天皇…
吉野を訪れることで、新たな力を得て難題に立ち向かったのでしょう。

平安時代以降も、「光る君へ」の藤原道長が金峰山に参詣したり(道長が残した金銅の経筒は国宝)、源義経が兄・源頼朝に追われて愛する静御前と吉野山に身を隠したり(歌舞伎「義経千本桜」)、戦国時代には、天下を取った豊臣秀吉が、徳川家康、伊達政宗ら総勢5000人を集めて壮大な花見会を行ったりなど、日本の歴史において貴重な役割を果たした場所でした。

吉野はまた、鎌倉時代のあとの南北朝時代、南朝がおかれた土地としても知られています。
ところがこの南北朝時代、歴史の流れが複雑なこともあり、歴史に詳しい方を除いては、理解しにくい、馴染みにくいと感じている方もいらっしゃるのではないでしょうか。

そんな人のために、ごく簡単に流れを解説させて頂きます。

後醍醐天皇による倒幕

鎌倉時代後期、第88代天皇の後嵯峨上皇が、幕府の協力を得て院政を敷いた際、天皇を子の後深草天皇から、その弟であり上皇が寵愛していた亀山天皇に譲位させたことが確執のはじまりです。
後嵯峨上皇がその次の代をどちらの子に継がせるかを定めずに崩御したため、亀山天皇の系統(大覚寺統=のちの南朝側)、後深草天皇の系統(持明院統=のちの北朝側)の二系統が交互に皇位を継承するという不自然な状態となってしまいました。

第96代の天皇となった後醍醐天皇は、この様な状況を招いた幕府を倒し、天皇自らによる治世を取り戻したいと考えていました。自らの名前にも、天皇親政を行った第60代の醍醐天皇に対するリスペクトが現れています。

倒幕を企て挙兵した後醍醐天皇は当初失敗し、隠岐へ流されます。幕府を支えていたのは御家人と呼ばれる武士達でしたが、北条氏の独裁に不満をためていた彼らは反旗を翻し、隠岐を脱出した後醍醐天皇の元に集います。楠木正成、新田義貞、足利尊氏らが戦績を挙げ、鎌倉幕府は滅びました。

後醍醐天皇は念願の王政復古を果たし、1333年、都の京都で「建武の新政」を開始しました。ところが、武士による治世を嫌って倒幕した後醍醐は、武士に比べ貴族を優遇し、倒幕の原動力となった足利尊氏には望む「征夷大将軍」の位も与えず、息子の護良親王をその地位に任じました。

1335年、鎌倉で尊氏の弟・直義が北条の残軍の攻め込まれると、尊氏は征夷大将軍として援軍に向かうことを求めましたが許可が得られず、自ら軍を率いて北条軍を鎮圧しました。天皇の指示に背いた尊氏は反逆者「朝敵」とみなされ、討伐軍を差し向けられる対象となってしまいましたが、逆に楠木正成や新田義貞らによる朝廷軍を撃退し、京都を占拠しました。

もともと武家の頂点に立つことを望んでいた尊氏は、京都に幕府を開き、新たに持明院統の光明天皇を擁立しました。後醍醐天皇は、尊氏に追われ京都から南方の吉野に逃れました。

南北朝の併存時代と統一、後南朝

足利尊氏が京都で擁立した持明院統の天皇による北朝と、後醍醐天皇が吉野で開いた南朝は、互いに正統性を主張して譲らず、その後約60年にわたって激しく対立する状態となりました。これが南北朝時代です。

後醍醐天皇が死去してから南朝の勢力は弱まりましたが、北朝側では足利尊氏・直義兄弟の亀裂が起こり、それぞれが南朝を味方に引き込んで争う等の内乱状態が続きました。尊氏の死後、チャンスと見た南朝側は楠木正成の子・正儀を京都奪還に向かわせましたが、一時的な京の占拠には成功するものの、直ぐにまた奪回されるということを繰り返しました。

南朝側の兵は疲弊し、人々の生活も荒廃することから、幾度か和平を探る動きもありましたが、南朝は強硬姿勢を変えませんでした。嫌気がさした正儀はついに南朝に見切りをつけ、北朝側に寝返ります。当時、将軍・足利義満の後見人で幕府の実権を握っていた細川頼之と正儀は、分裂した皇室を一つに戻し内乱を終息させようという意見で一致しました。

1392年、将軍義満と南朝の間で交渉が行われ、南朝の後亀山天皇が北朝の後小松天皇に譲位し、皇太子には南朝の皇子をつける(=後醍醐天皇以前と同様、大覚寺統と持明院統が交互に即位する)という内容で合意が得られました。楠木正儀、細川頼之、足利義満らの働きが、役60年続いた南北朝時代を終わらせたことになります。

ところが、実はこのあとも「後南朝」と呼ばれる時代がしばらく続きます。
というのも北朝側は「交渉は将軍と南朝との約束で、北朝は了承していない」という立場で、後小松天皇のあとの皇位も、続けて北朝の称光天皇に引き継がれました。南朝側はこれに反抗し、三種の神器を奪い返すなどの実力行動に出ましたが、結局は壊滅させられることになります(1443年 禁闕の変 「きんけつのへん」、1457年 長禄の変「ちょうろくのへん」)。

南朝は歴史の中でどう扱われてきたか

現在の皇室は、北朝の系統を継いでいます。

南朝側・大覚寺統の天皇は、後亀山天皇を最後に歴史から姿を消しました。また、南朝側の武士である楠木正成などは、江戸時代半ばまでは「朝敵」の扱いを受けてきました。

しかし、このころになって「太平記」が広く読まれる様になり、南朝側に同情的な見方が出てきたこと、南朝方新田氏の末裔とされる徳川光圀(水戸黄門で知られますね)が南朝を正統とする「大日本史」を編纂し、「水戸学」として継承されるなど、南朝正統論が研究されるようになりました。

明治維新を迎えると、尊王思想を掲げ南朝正統論の影響を受けた維新志士たちに政治の主導権が移りました。王政復古の流れは後醍醐天皇の政治姿勢と軌を一にするため、従来の皇室祭祀のあり方を改め、南朝関係者を祀る神社の創建・再興などが行われるようになりました(建武中興十五社)。

そんな中で、1889年(明治22年)に創建されたのが吉野神宮です。

神門の北西にある由緒書き

後醍醐天皇が崩御した際、子の後村上天皇が自ら父の木像を掘り、吉水院に安置していました。
明治時代になり神仏分離が行われると、吉水院は後醍醐天皇を祭神とする後醍醐天皇社という神社に改められました(後の吉水神社)。

明治天皇の意向を受け、建武中興十五社の一つとして後醍醐天皇を祀る吉野宮の創建が決定し、1892年に吉水神社から後醍醐天皇像を遷座しました。1901年、官幣大社に昇格して1918年に吉野神宮に改称、1923年に境内が拡張され、1932年に改築が完成しました。

現在の吉野神宮

祝詞舎、本殿を望む

吉野神宮は、吉野山北端の丈六平という台地にあり、観光客で賑わう吉野山の中心地からも少し離れているため周囲に建物などがなく、広大で静謐な環境に鎮座しています。

本殿や拝殿、回廊、神門などの建造物すべてが総檜造りです。26棟3基の建物が国の重要文化財に指定されており、昭和時代初期の神社建築を代表する壮麗さで、比較的新しい建築で美しく整備されていること、人々の住む土地から隔絶された立地であることなどから、特有の神聖さを感じることができます。

私が訪れた際には、摂社の前に何百という風鈴が吊るされ涼し気な音を奏でていたこと、神門に美しい色調の風車が飾られていたことなどもあって、本当に清冽な水で心が洗われるような雰囲気を感じました。
古くから歴代の天皇が吉野という地に感じた不思議な力と、通じるものがある様に思います。

神門から北を望むと
大鳥居が見える

日常の生活の中で、どうしようもない悩みから抜け出せないとき、頭や心に清涼な空気を取り入れて心機一転を図りたいときなどに、訪れてお参りしてみては如何でしょうか。



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