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「木の鳥」が居たおじいちゃんのお庭

 わたしの父は、昭和の初めに、台湾で生まれた。

 祖父が、台湾で、警察官をしていたからだ。

 けれども、祖父は、父が、三才のときに、マラリアに罹って、職務中に、あっけなく、亡くなってしまった。そこで、残された家族は、しかたなく、祖父が生まれ育った町に、戻って来たのだった。

 そうして、代々祖父の一族が住む土地の一画に、家を建ててもらい、祖父が残した年金で、細々と暮すことになった。

 だから、父の家は、一軒家なのだけれど、とても小さな家だった。

 部屋数も少なく、子どもがのびのびと遊べるような場所は、そこには、無かったので、わたしは、頻繁に、ごく近くにあった、広い農家の、母の実家に、預けられて育った。

 十九才で母を生んだ祖母は、まだ四十代だったし、わたしと一番年が近い、母の末の弟は、わたしとはたった六才しか離れていなくて、まだ、七、八才だったのだ。

 母の弟は、「叔父さん」なのだけれど、そこは「子ども同士」なので、わたしたちは、そんなことを意識することもなく、よく、一緒に、「かけっこ」をしたり、「相撲」を取ったりして、楽しく遊んでいたのだった。

 母の実家は、その当時は、まだ農地もたくさんあったし、「果樹園」や「白い壁の蔵」もあって、牛や豚やにわとりも、たくさん飼っていた。

 幼いわたしにとって、母の実家は、さまざまに、想像力をかきたててくれる、まさに、「楽園」だったのだ。

  ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※

 幼いわたしのこころのなかで、「空想」というものが、育ったのは、母の実家があったから、かもしれない。

 父の実家を出て、大きな町に引っ越してからも、その町での「間借り」は、たった「六畳ひと間」だったので、やっぱり、わたしは、よく、母の実家に預けられて、「お泊り」をしていた。

 わたしは、母の実家への「お泊り」が大好きだった。なぜなら、母の実家では、わたしは、「自由」と「空想」を満喫出来たからだ。

  ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※

 「お泊り」をした朝。

 農家の朝は、早い。

 長い廊下を閉ざしている、たくさんの「雨戸」を、一枚一枚、祖母が、開けてゆく音で、わたしは、眼を覚ます。

 「ガラガラガラー。」

 盛大な「音」の「洪水」だ。

 でも、わたしは、まだ、眠い。

 「わんわん、わんわん。」

 待ちかねて、犬のメリーが、祖母に、じゃれついている感じが、寝床にいるわたしにも、伝わって来る。

 祖母は、「雨戸」を開け終えて、わたしが寝ている奥の間と廊下の間の戸を、ちょこっと開け、

「祝子は、もすこし、寝てて、いいがらね。」

と、言う。

 わたしは、祖母のその声を聞くと、安心して、もう一度、頭から、布団をかぶる。

 でも、戸が開くと、わたしの布団の足もとで、丸くなっていた猫は、背伸びをして、廊下に出て行ってしまうのだった。

 離れた居間のほうからは、いろんな「声」が聞こえて来る。まだ学校に通っている「叔父」や「叔母」が、朝ごはんを食べているのだ。

 「忘れ物すんなよー。」

 「気をつけろよー。」

 「もう、遅い! 先に行っちゃうからねー。」

 さまざまに声をかけ合いながら、自転車に乗る者、走り出す者、みんな大忙しだ。

 電車に乗るひとたちは、自転車で駅まで行くし、近くの小学校や中学校に通うひとたちは、大急ぎで、家から飛び出してゆく。

 母の兄弟は、八人も居て、母と、一才違いの弟以外は、まだ、結婚もしていなかったし、ほとんどが、学生だった。

 みんなが出かけてしまって、居間が、しーんとしたら、それが、わたしの「出番」を意味している。

 ぼんやり起きて、前の晩から、枕元にそろえて、たたんであった洋服に着替え、井戸端まで行って、水を出して、顔を洗う。

 犬のメリーは、勘がいいから、なんにも言わなくても、いつも、わたしを即座に見つけ、走って来て、ニコニコしながら、横に座って、わたしを見ている。

 牛小屋からは、

「モウ、モウ」

という、鳴き声が聞こえて来る。

 庭では、ニワトリとチャボが、数羽、放し飼いにされて居て、地面の何かを、喋んでいる。

 九月。

 東北は、もう秋になっている。

 今朝も、空が青くてきれいだ。 

 台所の土間に回ると、今朝搾ったばかりの、殺菌されて、ふぞろいな、いろいろな形の瓶に入れられた牛乳が、何本か、置いてある。

 出荷しないで、「家族用に」と、取って置かれた牛乳だ。

 わたしは、そのなかの、一番素適な形の瓶を選んで、居間の食卓まで、持って行く。

 「おばあちゃん、おはよう。」

 「おはよう。よぐ眠れたか?」

 祖母は、決まって、そう聞く。

 「よく眠れたよー。ぐっすりー。」

 わたしは、そう言いながら、瓶の牛乳を、ごくん、と飲む。

 搾りたての牛乳は、とっても、濃くて、とっても甘い。

 祖母が作ってくれる朝ごはんは、いつも、とても、おいしくて、わたしは、なぜか、自分の家にいるときよりも、もりもり食べることが出来た。

 母の実家は、田んぼと畑の真ん真ん中にあって、家のまわりは、屋敷林と竹やぶに囲まれていた。

 近所の家々は、ポツン、ポツンと、ずいぶんと離れて建っていたので、家族以外の声は、聞こえて来ない。。

 庭の端っこには、白い壁に、黒い瓦屋根の「蔵」があって、「蔵」の後ろには、農業用水を兼ねた小川が流れていた。

 川のなかに置かれた小さな水車は、くるくると、よく回っていて、祖父が作った小さな木の橋が、裏の畑に渡るために、架けられていた。

 蔵の前に立って、家のほうを見ると、いつもの家が、違う家に見えたりするから、わたしには、なんだか、面白かった。不思議な気持ちになってしまうのだ。

 ーーわたしは今、「知らない町の知らないおうち」に来ている。ここは、どこなの?

 なんて、想像してみる。

ーーわたしも、「知らない子」 だれ?

 なんて、イメージしてみるのだ。

 「知らない子」になって、「知らないおうちの、知らないお庭」を散策しているわたし。。

 この「空想」は、幼いわたしにとっては、ほんとうにおもしろい遊びだった。

 幼稚園に入る直前頃に、かなりハマっていた「空想の遊び」だったのだ。

 ひとりでいろいろ想像して、にやにやしていると、いつも、母に、

「なに変な顔をしてるの?」

と、言われてしまうのだけれど、母の実家では、わたしのにやついた顔なんか、誰も、見てはいない。

 「自由」なのだった。

 蔵の前に立つと、家に向かって、左側に、豚小屋とニワトリ小屋が並んでいる。右側には、牛舎が建っていた。 

 ニワトリ小屋の先には、祖父が、丹精こめて作り上げている「お庭の入り口」が見える。入り口には、祖父の手造りの木戸があった。

 「知らない子」になっている「わたし」は、木戸を開けて、「知らないお庭」に入ってみる。

 そこは、わたしにとっては、「秘密のお庭」だった。

 なぜなら、そこには、「木の鳥」がニ羽、居たからだ。

   ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※

「秘密のお庭」では、祖父が作業をしていた。

 祖父は、一心に、柘植の木の剪定をしているのだ。わたしが入って来たことに、気づいてもいない。

 わたしは、今、「知らない子」だから、ちょうどいい。

 祖父が気づかないように、わたしは、足音をたてずに祖父の真後ろに立って、剪定を見ていた。

 祖父は、柘植の木を、いろいろな形に作り上げることが、とても得意だった。

 さほど広くない庭に、柘植の木は、五本くらい、あっただろうか。

 まんまるに切り揃えられているもの、お団子みたいにまんまるが段々になっているもの、いくつかに形良く枝分かれしていて、その先が、小さくまんまるく切り揃えてあるもの、そうして、鳥の形のものが一対になって、向かいあっているもの、があったように、記憶している。

 祖父は、少しでも形が崩れそうになると、いつでも、まめにきれいに切り揃えては、満足気に眺めて、

「うん、いぐなった(良くなった)、いぐなった(良くなった)。」

と、うなずくのだった。

 全部きれいだったけれど、わたしは、何といっても、一対の「木の鳥」が、お気に入りだった。

 我慢出来なくなって、後ろから、祖父に、話しかける。

 「おじいちゃん、きれいになったね、鳥さんたち。」

 「おう。」

 手を休めずに、祖父は、応える。たぶん、もう、ずっと前から、わたしが来たことには、気づいているのだ。

 祖父は、柘植の木をいじっているときは、とても、ぶっきらぼうなのだった。

 わたしは、もう、祖父には、話しかけずに、また、「知らない子」に戻って、「木の鳥」を、見つめながら、「空想」の世界に入ってゆく。。

   ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※

 ニ羽の仲良しの「木の鳥」は、おはなしをしている。

 「お空は、広いね。」

 「そうだね。」

 「ぼくたち、いつか、あのお空を、飛べるかな?」

 「飛びたいの?」

 「一回は、飛んでみたいかな。」

 「ぼくは、飛ばなくても、いいな。」

 「なんだ。ぼくと一緒に飛ばないの?」

 「だってぼくは、このお庭が大好きだからさ。どこにも行かなくていいんだ。」

 「そうかぁ。一緒に飛びたいのになぁ。」

 「ぼくは、飛ばない。」

 「ぼくも、このお庭が大好きだから、ちゃんと、戻って来るよ。だから、待ってておくれよ。」

 「もちろんさ。ぼくは、ずうっと待ってるよ。このお庭で。きみの帰りをさ。」

 「知らない子」のわたしは、「知らない町」の「知らないお庭」で、「知らない木の鳥」を見つめながら、「空想」のおはなしに、夢中になってゆく。。

 祖父のお庭には、祖父が掘って作った「池」もあった。

 「池」のまわりには、小さな赤い実の成る木や、大きな葉っぱの草が繁っていて、「池」を取り囲んでいた。金魚も数匹、泳いでいた。鯉も、居た。

 そうして、「池」の上には、猫が、金魚を食べてしまわないように、網が被せてあった。

 その情景もまた、わたしの想像をかき立てる。

 一匹の金魚が言う。

 「ここから見える、あの赤い実、きれいだよね。」

 もう一匹の金魚が応える。

 「ほんとだぁ。キラキラしてる。」

 「あれさ、美味しそうに見えるよね。」

 「えー? 食べちゃうの?」

 「美味しいのかどうか、食べてみたい。」

 「ぼくは、食べるよりも、遊んでみたいな、あの赤い実を、突っついてさ。」

 「突っついて?」

 「うん。突っついて遊んだら、きっと、もっと、キラキラするよ、あの赤い実。」

「そうかぁ。おもしろいそうだねー。」

「うん。絶対、おもしろいよ!」

「落ちて来ないかなぁ。」

「鳥さんが突っついて、落としてくれるといいね。」

 「そうだね!」

 「今度、鳥さんが、飛んで来たら、頼んでみようか。」

 「うん、そうしよう。鳥さん、飛んで来ないかなぁ。」 

 こうやって、また、「知らない子」の「わたし」は、「知らない町」の「知らないお庭」で、「知らない金魚たち」の「空想」に耽るのだ。

 どこまでも、「自由」に。。

  ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※

 祖父は、わたしが幼いころは、まだ、五十代半ばだった。でも、もう、隠居暮しをしていた。

 なぜなら、祖父は、戦争で、怪我をして、命からがら帰還したひとだったからだ。

「いのちが取られなくて、なんぼか(とっても)、いがった(良かった)。」

 祖父は、よく、そう言っていた。

 信じられないことに、祖父は、二回も徴兵されて、二回とも、「流れ弾」に当たって大怪我をし、「送還される」という経験をしていた。

 「ほれ、ここだ。」

と、祖父は、よく、わき腹や背中を、わたしに見せてくれた。

 少し黒ずんだ皮膚。。

「まだ、ここに、弾が入ってんだぞ。」

 祖父は、そう言った。

 急所は外れたものの、戦地では、手術も出来ず、送還されたころには、もう、傷が塞がっていたので、そのままになってしまったのだ。

 なんて、おそろしい。

 それでも、祖父は、

 「生きて、けえれた(帰れた)から、いがった(良かった)。」

 と、よく言っていた。

 「戦争で、外国に行かされたし、さんざん移動させられたから、もう、何処にも行かない。」

 祖父は、そんなようなことを言い張って、九十才を過ぎるまで生きたのに、亡くなるまで、何処にも、旅行に行かなかった。

 時たま気が向いたときにする畑仕事と、柘植の木のお世話と、ニワトリとチャボに餌をあげること以外に、祖父は、何をしていたのだろう。

 あまり、思い出せない。

 祖父は、語らなかったけれども、きっと、戦争に二回も行かされた「こころの傷」が、生涯癒えることが無かったのではないかな、と、思ったりする。

 それでも、祖父は、愉快でお茶目なひとだった。

 戦争に駆り出される前、母がまだ子どものころは、祖父は、「おはなしが上手い」ことで、「村の人気者」だったそうだ。

 まだ、テレビなど無かった時代、祖父は、「おはなしが面白い」ので、近所の家から、「おはなしをしに来て欲しい」とリクエストされて、いつも、「夕飯どき」に、出かけていったらしい。

「だからさ、いつも、夕飯のときは、じいさんは居ないのよ。どっかの家で、おはなししてて、どっかの家の夕飯をご馳走になっててさ。」

 母は、そう言って、笑っていた。

 そんな祖父でも、戦争で酷い目にあってからは、しばらく、笑わなかったそうだ。

 戦争中に、わたしの母が、「結核」になって、おそらくは死んでしまうだろうと思われていたのに、奇跡的に死なずに済んで、結婚もし、わたしが生まれたとき、祖父は、大喜びをして、

「生きてて、いがった(良かった)、いがった(良かった)。ご祝儀だ!」

と、わたしの名前を「祝子」と名付けたのだけれど、その頃から、また、ようやく、声を出して、笑うようになったらしい。

 祖母もまた、戦争では、子どもを育てるために、大変なおもいをした。

 祖父は戦地だから、祖母は、ひとりで、朝から晩まで農作業をして、出来た野菜を、リヤカーに積んで町まで売りに行き、そのお金で、子どもたちを育てたのだ。「村一番の働き者だ」とも、言われていたそうだ。

 戦争前に生まれた子どもは三人、戦争中に生まれた子どもが二人、戦後に生まれた子どもが三人だから、祖母も、ほんとうに大変だったろうと思う。

 だから、祖母は、筋金入りの「猛母」だった。若いころは、とても、怖かったらしい。

「ばあちゃんが寝ているところは、見たこと無かったもの。」

 と、よく、母は、言っていた。

 祖父と祖母は、「家同士が釣り合いが良いから」という理由だけで、「本家の頭領」が決めた結婚だったらしいけれども、二人の仲は良かった。

「結婚式の一週間前に、始めて会ったんだ。」

「それでも、ちっこくて(小さくて)、めんこかった(可愛かった)からな。」

 と、祖父は、わたしに話してくれたことがある。

 祖父は、昔のひとにしては、背が高かった。そうして、祖母は、わたしくらい、小さなひとだった。

 そんな祖母に、わたしは、親族で一番よく似ていると言われていたから、わたしは、祖父の「お気に入り」だったのかもしれない。

  ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※

 ようやく、柘植の木の剪定が、終わった。

 祖父は、飽かずに、柘植の木を眺めている。

 二羽の柘植の木の鳥も、きれいに切り揃えられて、さっぱりとしていた。

 「いぐなった(良くなった)な。」

 少し斜めに立って、腰に手を当てて、目は柘植の木だけを見つめて、祖父は、誰に言うともなく、「ひとりごと」を言った。

 祖父の「声」で、わたしは、「知らない子」から「祝子」に、戻った。

そうして、「知らないおうち」の「知らないお庭」は、母の実家の「おじいちゃんのお庭」に、戻るのだった。

  ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※

 戦争の前に、乞われては、部落中の家庭に「おはなし」に行っていたころ、祖父は、いったい、どんな「おはなし」をしていたのだろうか。

 祖父は、「絵」も上手だった。ひとの家のふすまに、頼まれて描きに行っていたこともあったようだ。

 サクサクと働いているところは、あんまり、見たことがないけれど、祖父は、もしかしたら、「文人」だったのかもしれない。

 祖父は、三十年以上前に亡くなったし、祖母が亡くなってからも、もう、二十年以上経ってしまった。

 ひとは、生まれる時代を選ぶことは出来ないし、与えられた場所で、精一杯生きることしか、出来ない。

 それでも、きっと、誰もが、自分では気づかないままに、誰かに、何かを遺して、逝くのだろうと、思う。

 わたしは、「空想すること」を、祖父から、受け継いだような気がしてならないのだ。

 今はもう、無い、「おじいちゃんのお庭」で、祖父が、丹精をこめて剪定していた、一対の「柘植の木の鳥」を、思い出すたびに、わたしは、少し斜めになって、腰に手を当てた祖父の、「満足そうな笑顔」と、すらりとした「立ち姿」を、想い出す。


 

 

 

 

 

 

 

 


















































































































































































































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