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「チュニジアより愛をこめて」 第12話

 「南部の方をね、まわって来たんですよ。まずはジェルバ島へ渡って、それからサハラ砂漠のツアーに参加して、トズールに寄って、エキゾチックな気分に浸って来ました。……南部へは?」
「まだです。チュニスとここ以外、まだどこへも」
 私は微笑んで答えた。
 リウは意外そうな様子で私を見た。そして、そうしておいてから、さもありなんというようなしたり顔になって、何度も頷いた。
「そうでしょうね。あなたはチュニジアに来た目的を果たされた。それで、ホッとして、この美しい街に来てゆっくりと成功に浸っているところというわけですね」
「どうしてそれがわかるんです?」
 私は問うた。
 劉はさっきまでとは違う、少し真面目な、そして幾分気まずそうな表情になって言った。
「実は、あなたを少し霊視させていただきましたのでね」
 私は、無言でじっと彼を見返した。互いの目と目の間に、わずかな緊張が走った。劉も今、私の顔の表情を、何かを推し測るように見つめていた。
 そして、数秒の後、やっと緊張がほどけたような声で劉は言った。
「思い止まられて本当に良かったですね」
 私はこの時、占い師を前にして、驚きとともに深い安堵感を覚えた。……そして、自分の取った選択はやはり正しかったのだという思いがこみ上げてきて、溜息をついた。
「チュニスのホテルで会った時、あなたのオーラは異様にくすんで見えました。頭の周りに、黒に近いグレー色のモヤモヤしたものが沢山見えてね……。普段私はそういうものは見慣れているし、見たとしても気にしないようにしているんですがね。あなたの場合は少し違った。そのグレー色の中に、赤い、とても危険なものが混じっているように見えました。だからあなたに近づいて、声をかけたのです。……それがいよいよ危険なものなら、ひと言忠告しようと思ってね……。でも近づいて話してみると、あなたのその赤いもののそのまた向こうに、なかなか清らかな光が輝いて見えたような気がしたんです。あなたと話しながら私はなおも見続けました。するとあなたの携帯の着信音が鳴って、あなたはメッセージを開いた。それを読んでいる時、あなたのオーラは全体的に淡いピンク色をていしたんです。だから私は確信しました、あなたはそれを実行すること、、、、、、、、、はないだろうとね」
 ――大丈夫、何もかも上手くいきますよ、と笑って言ったのは、私が計画を実行して最悪の事態に陥ることはないと確信して嬉しかったからだ、と劉はもう一度笑って言った。
「……でも、もしそれをやっていたら、大変なことになっていたでしょうよ。チュニジアの警察を舐めてはいけません。例えもし身分を隠していたとしても、ホテルには防犯カメラも備わっているし、あなたを目撃したお客や従業員も沢山いるはずです……。警察はかなり高い確率であなたを見つけ出したでしょう」
 でももう大丈夫ですね、と、晴れやかな笑顔で劉は膝を叩いた。そして今見るに、私のオーラは晴れた青空のように美しく澄み渡っていると言った。
 
 
 ――そう――。あの時私は、カミソリを引くことができなかった。
 その時になって初めてわかったのだ。私には、彼の命を絶つことはできないと。物理的に彼の肉体を破壊しても、そのことは、決して彼の存在による苦しみを克服することにはならない、と……。これから先、パートナー、、、、、とともに長く続いていくであろう彼のムスリムとしての幸せな人生を摘み取ってしまう権利は私にはない。彼の母親の慟哭どうこくする姿が向こうに透けて見えたというのも正直な理由のひとつだった。アラブの血族の強い結束に故意に穴を空けることがもたらす結果というものを私は恐れたのかもしれなかった。その後に一族に充満するであろう、長く続く哀しみと不幸を……。でもそれだけではないような気がした。もっと何か他のもの、全く別種のものが、私を止めたのかもしれなかった。
 いずれにせよ私は知った。自分の中から彼を葬り去るには、もっと他の方法がふさわしいということを。――捕まえた魚をそっと逃がしてやるように、イスラムの大海に、再び彼を放したのだった。
「全てあなたの決めたことですよ」
 劉はそう言うと、瓶に残っていたボガをグラスに注いで飲み干し、言葉を継いだ。
「愛していたんですね」
 
 
 ――チュニスのホテルのあの部屋で、彼は数時間の後、ふと意識を取り戻して、浴室に自分ひとりが取り残されていることに気づいただろう。荷物も何もかもと一緒に、置き手紙も残さずに私が消えたことを知って、不思議に思ったことだろう。SNSのメッセージも繋がらない。彼からは、何度も問いかけのメッセージが届いていた。私はそれらを全て削除し、アカウントをブロックしてしまった。ホテルの部屋を出て行く前、彼が最後に見るのは、〝ありがとう〟、〝さようなら〟と書いた、彼自身の筆跡から成るメッセージだけだろう。
 
 
 乗り合いタクシールアージュを捕まえて空港に急がなきゃ、と劉が立ち上がった。今日チュニジアを発つんです、と彼は言った。
「またお会いできて良かったです」
 と私は言った。彼は人を安心させずにはおかない柔和な笑みを浮かべて、もう一度言った。
「台南に、一度訪ねていらっしゃい。待ってますよ」
「ええ、いつか。必ず」
 私はそう言って、彼を見送った。

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