猪鼻康幸

木更津、bar toricoの店主をしています。 これまでの、自分に起こった出来事な…

猪鼻康幸

木更津、bar toricoの店主をしています。 これまでの、自分に起こった出来事などを つらつらと書いてみようと思います。 誰かに読んでほしい気持ちと、自分自身が忘れないための記録でもあります。 Instagram @yachi_bakushu @bar_torico

記事一覧

『 屋号は、bar torico 』

ちょうど10年前の、2014年 4月9日に 木更津市内、東太田にbar toricoはオープンした。 屋号というのは、ものすごく大切だと思っている。 僕の主義としては、あまり立派…

猪鼻康幸
3か月前
14

『 賽の河原の人生 』

若干、まだ55歳にして、人生を語るというのは 烏滸がましくもあり、生意気なような気がする。 それでも、生い立ちから、現在まで どう振り返っても、 いわゆる "普通" …

猪鼻康幸
3か月前
7

『 雇われマスターから、経営者へ 』

順調に、お客さんも戻り、同時に新規のお客さんも増えて 二年の月日が経った。 ここで、また新たな展開が始まる。 オーナーからの提案で bar Come Onを自分で経営して…

猪鼻康幸
3か月前
5

『 わずか30分で仕事が決まった 』

母が退院して、一週間ほどが経った。 特に問題もなく、日常生活を送った。 母はすっかり、入院生活のリズムに身体がなっていたので 夜9時になると眠った。 さて、自分…

猪鼻康幸
3か月前
2

『 母の生命力 』

心の支えだった彼女が去り、職も無くし、 あとは、母の二回目のオペを待つだけとなった。 病室では、出来るだけ平静を装ったが 母と妹に、異変を気づかれ、彼女との別れ…

猪鼻康幸
4か月前
5

『 こんなときに… 』

本来ならば、母の二回目のオペの話を書くところだが スピンオフとして、そのときにあった 別の話を書くこととする。 その頃、僕には4年半付き合っていた彼女がいた。 …

猪鼻康幸
4か月前
3

『 こんなところで会わなくてもいいのに… やれやれ 』

母が一般病棟に移ってから、また血管造影の検査をした。 今回、強行でオペした箇所は、クリップが不十分なので もう一度、アタマを開くオペをすることになった。 それか…

猪鼻康幸
4か月前
3

『 強行オペ 』

朝、5時か6時頃、いきなり診察室に呼ばれた。 若い医師から、「このままだと、死を待つだけになってしまうから、強行でオペしませんか。」 と、問われた。 破裂した、脳…

猪鼻康幸
4か月前
3

『 予期せぬ出来事 』

少しづつ、身体も心も回復し 順調に、着実に、いい方に向かっていた。 スタッフとも、阿吽の呼吸で仕事が出来るようにもなっていった。 余談になるが、その頃の僕は(JA…

猪鼻康幸
4か月前
3

『 将来の目標は、自分のbarを持つこと 』

日々、店長としての業務をこなし、 スタッフに仕事を教えながら営業する。 その頃思ったのが いづれ、近い将来 自分のお店を持とう という、新たな目標ができた。 お…

猪鼻康幸
4か月前
4

『 bar 店長の始まり 』

店長になること自体は、特に抵抗もなく やり方等々もわかっていたので問題はなかったが それが、ちょうど三月で、他のスタッフが 学校の卒業や、転職などで 誰もいない…

猪鼻康幸
4か月前
3

『 人気店への移籍 』

前回までは、僕が30歳のときに起こった病気のことについて書いたが 今回は、少し遡って、27歳の頃の話になります。 君津駅前の、bar stair way から、 木更津駅東口 駅…

猪鼻康幸
5か月前
3

『 退院の日 』

若さもあってか、回復は順調に進み ゆっくりなら、トイレまで歩けるようになった。 下腹部の管が取れたときは、痛いけど嬉しかった。 胃カメラの検査をし、その後、流動…

猪鼻康幸
5か月前
4

『 一般病棟は、全力でリハビリを 』

一般病棟に移ってからは、できるだけ 身体を起こしてもらうようにした。(もちろんベッドごと) 何故かわからないけど、ずっと身体がゆっくりと ぐるぐる回っているよう…

猪鼻康幸
5か月前
3

『 ICUから一般病棟へ 』

前回の続きである。 1998年3月12日に、ある病院で点滴を受けた。 いつもと同じ点滴なのに、その時だけ アナフィラキシー反応なんてあり得ないだろうが、その病院からは…

猪鼻康幸
5か月前
2

『 生還 』1998.3.12 の出来事。

この日のことは、一生忘れることはないだろう。 あるとき、目が覚めると、母が上から覗き込んでいた。 「あのね、わからないだろうけど、もう一週間経ってるんだよ」と、…

猪鼻康幸
5か月前
7
『 屋号は、bar torico 』

『 屋号は、bar torico 』

ちょうど10年前の、2014年 4月9日に

木更津市内、東太田にbar toricoはオープンした。

屋号というのは、ものすごく大切だと思っている。

僕の主義としては、あまり立派な名前や

すごく、難しい名前は付けたくなかった。

慎ましく、読み方も簡単で、そして何より

響きの良さを重視した。

あれこれ悩むかと思ったが

ほんの一瞬で決まった。

決まったというよりは、"降りてきた"とい

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『 賽の河原の人生 』

『 賽の河原の人生 』

若干、まだ55歳にして、人生を語るというのは

烏滸がましくもあり、生意気なような気がする。

それでも、生い立ちから、現在まで

どう振り返っても、

いわゆる "普通" 或いは、"一般的"とは

言えない人生であり、

ある意味、ドラマ性に富んだ人生だとは言えるのであろう。

そして、今この時でさえ、

僕が積み重ねた石は、一瞬で壊されてしまった。

救いなのは、bar toricoという

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『 雇われマスターから、経営者へ 』

『 雇われマスターから、経営者へ 』

順調に、お客さんも戻り、同時に新規のお客さんも増えて

二年の月日が経った。

ここで、また新たな展開が始まる。

オーナーからの提案で

bar Come Onを自分で経営してほしいとのこと。

専門用語でいうと、独立採算というのだが

お店そのものを、僕自身が借りて

家賃、店舗賃料、光熱費等々、すべてを僕が払い、

給料を貰うのではなく、経営者として

独立するのだ。

一日、考える時間をも

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『 わずか30分で仕事が決まった 』

『 わずか30分で仕事が決まった 』

母が退院して、一週間ほどが経った。

特に問題もなく、日常生活を送った。

母はすっかり、入院生活のリズムに身体がなっていたので

夜9時になると眠った。

さて、自分はどうしようか?

自分の古巣の、Le JAZZに飲みに行こうとしたが

いろいろ話を聞かれて、それに答えたりするのも面倒なのでやめた。

こういうときは、あまり関わりのないお店がいい。

と、いうわけで、市内のあるビアホールに行っ

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『 母の生命力 』

『 母の生命力 』

心の支えだった彼女が去り、職も無くし、

あとは、母の二回目のオペを待つだけとなった。

病室では、出来るだけ平静を装ったが

母と妹に、異変を気づかれ、彼女との別れを話した。

毎日が、モノクロームの世界だった。

母のオペの当日、また 僕と妹は
病室でオペの無事を祈った。

今回のオペも、前回同様に、頭蓋骨を切り取り、
血管の脳動脈瘤をクリップでとめると言う

難易度の高いオペだ。

もし、破

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『 こんなときに… 』

『 こんなときに… 』

本来ならば、母の二回目のオペの話を書くところだが

スピンオフとして、そのときにあった

別の話を書くこととする。

その頃、僕には4年半付き合っていた彼女がいた。

そして、彼女は母の入院している病院の看護師でもあった。

彼女(仮名 エミとしておく)の所属先はICUだった。

その、二年前には僕が入院していた場所である。

母の容態がいつ急変するかわからなかったので

病院近くにアパートを借り

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『 こんなところで会わなくてもいいのに… やれやれ 』

『 こんなところで会わなくてもいいのに… やれやれ 』

母が一般病棟に移ってから、また血管造影の検査をした。

今回、強行でオペした箇所は、クリップが不十分なので

もう一度、アタマを開くオペをすることになった。

それから、未破裂の脳動脈瘤がいくつかあって

それも同時にやることが決まった。

母には、もう嘘はつけないので

本当はくも膜下出血だと言うことを伝えた。

「私はもう死ぬの?」と母が言うので

「大丈夫。もう、一度目の手術が無事に済んだの

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『 強行オペ 』

『 強行オペ 』

朝、5時か6時頃、いきなり診察室に呼ばれた。

若い医師から、「このままだと、死を待つだけになってしまうから、強行でオペしませんか。」

と、問われた。

破裂した、脳動脈瘤の根元をクリップで止める手術なのだが

アタマの中に、大量の出血があるから上手くいくからわからない…。

ただ、今、出血箇所が止まっているから

やるのなら、今しかありません。と言われた。

僕と妹は、即答で「お願いします」と

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『 予期せぬ出来事 』

『 予期せぬ出来事 』

少しづつ、身体も心も回復し

順調に、着実に、いい方に向かっていた。

スタッフとも、阿吽の呼吸で仕事が出来るようにもなっていった。

余談になるが、その頃の僕は(JAZZ BARで働いてからのこと)

女性客から、かなりの人気があった。

(現在とは大違いである)

同時の写真が見つかったので載せてみる。

一年、二年と時は経ち

Le Jazzでのやることは、やり切った。

そんな思いが芽生え

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『 将来の目標は、自分のbarを持つこと 』

『 将来の目標は、自分のbarを持つこと 』

日々、店長としての業務をこなし、

スタッフに仕事を教えながら営業する。

その頃思ったのが

いづれ、近い将来 自分のお店を持とう

という、新たな目標ができた。

お店の営業も順調で、評判もかなり良かったと思う。

人気店での成功は、確実な自信へと繋がった。

少しづつ貯金をし、やっと三桁を越え

あと2年後くらいには、銀行の借り入れを合わせて

自分のBARを始めよう。そんなふうに考えていた

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『 bar 店長の始まり 』

『 bar 店長の始まり 』

店長になること自体は、特に抵抗もなく

やり方等々もわかっていたので問題はなかったが

それが、ちょうど三月で、他のスタッフが

学校の卒業や、転職などで

誰もいない状態になってしまった。

オーナーと相談をして、系列店の喫茶からひとり

あと、ふたりを募集するところから始まった。

前々から、お客さんで来ていて

働きたいと言っていた21歳男性と、

前スタッフの知人が働くこととなった。

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『 人気店への移籍 』

『 人気店への移籍 』

前回までは、僕が30歳のときに起こった病気のことについて書いたが

今回は、少し遡って、27歳の頃の話になります。

君津駅前の、bar stair way から、

木更津駅東口 駅前にある

木曜舎 Le Jazz

という、ジャズバーに移籍をした。

木曜舎というのは、木更津界隈に数店ある

喫茶、雑貨のお店なのだが、その一つが
ジャズバーだった。

このお店は、とても人気で、週末は必ずと

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『 退院の日 』

『 退院の日 』

若さもあってか、回復は順調に進み

ゆっくりなら、トイレまで歩けるようになった。

下腹部の管が取れたときは、痛いけど嬉しかった。

胃カメラの検査をし、その後、流動食が始まった。

りんご汁や、薄い味噌汁などが小さい湯呑みみたいな器に入っていて

それを飲むのが食事だった。

そのあたりになると、顔や髪の毛を洗って

さっぱりしたいと言う気持ちになり。

翌日脇の、水場で、母親にシャンプーをして

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『 一般病棟は、全力でリハビリを 』

『 一般病棟は、全力でリハビリを 』

一般病棟に移ってからは、できるだけ

身体を起こしてもらうようにした。(もちろんベッドごと)

何故かわからないけど、ずっと身体がゆっくりと

ぐるぐる回っているような感覚だった。

何もできない自分に、腹立たしさを
感じる。

いや、違う 何かやるべきことはあるはずだ。

そうだ。起きてる時間はすべて
指でも、首でも、腕でも、足でも、
どこかしら動くよう頑張ってみよう。

そんなことを考えながら

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『 ICUから一般病棟へ 』

『 ICUから一般病棟へ 』

前回の続きである。

1998年3月12日に、ある病院で点滴を受けた。

いつもと同じ点滴なのに、その時だけ

アナフィラキシー反応なんてあり得ないだろうが、その病院からはそう言われたらしい。

だが、99% 点滴の中身を誤ったとしか考えられない。

不運な医療事故だ。(もちろん、それを証明することは不可能である)

だが、これによって、僕の人生が
まったく別の方に変わってしまったという事実だけは

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『 生還 』1998.3.12 の出来事。

『 生還 』1998.3.12 の出来事。

この日のことは、一生忘れることはないだろう。

あるとき、目が覚めると、母が上から覗き込んでいた。

「あのね、わからないだろうけど、もう一週間経ってるんだよ」と、母が言った。

僕には何を言ってるのか、さっぱりわからなかった。

「どうゆうこと?」と聞き返そうと思ったが、声が出ない。

続けて母は言う

「ここはね、上総記念病院じゃなくて、君津中央病院のICUなの。」

えっ、どういうこと?

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