猪鼻康幸

木更津、bar toricoの店主をしています。 これまでの、自分に起こった出来事な…

猪鼻康幸

木更津、bar toricoの店主をしています。 これまでの、自分に起こった出来事などを つらつらと書いてみようと思います。 誰かに読んでほしい気持ちと、自分自身が忘れないための記録でもあります。 Instagram @yachi_bakushu @bar_torico

最近の記事

『 屋号は、bar torico 』

ちょうど10年前の、2014年 4月9日に 木更津市内、東太田にbar toricoはオープンした。 屋号というのは、ものすごく大切だと思っている。 僕の主義としては、あまり立派な名前や すごく、難しい名前は付けたくなかった。 慎ましく、読み方も簡単で、そして何より 響きの良さを重視した。 あれこれ悩むかと思ったが ほんの一瞬で決まった。 決まったというよりは、"降りてきた"という方が正しいのかも知れない。 僕はファッションが大好きである。 もともと、美

    • 『 賽の河原の人生 』

      若干、まだ55歳にして、人生を語るというのは 烏滸がましくもあり、生意気なような気がする。 それでも、生い立ちから、現在まで どう振り返っても、 いわゆる "普通" 或いは、"一般的"とは 言えない人生であり、 ある意味、ドラマ性に富んだ人生だとは言えるのであろう。 そして、今この時でさえ、 僕が積み重ねた石は、一瞬で壊されてしまった。 救いなのは、bar toricoという 僕の集大成ともいえるお店が残っていることが唯一である。 簡単に言ってしまえば、

      • 『 雇われマスターから、経営者へ 』

        順調に、お客さんも戻り、同時に新規のお客さんも増えて 二年の月日が経った。 ここで、また新たな展開が始まる。 オーナーからの提案で bar Come Onを自分で経営してほしいとのこと。 専門用語でいうと、独立採算というのだが お店そのものを、僕自身が借りて 家賃、店舗賃料、光熱費等々、すべてを僕が払い、 給料を貰うのではなく、経営者として 独立するのだ。 一日、考える時間をもらい、結局は承諾することにした。 これで、雇われから、オーナーに変わったのだが

        • 『 わずか30分で仕事が決まった 』

          母が退院して、一週間ほどが経った。 特に問題もなく、日常生活を送った。 母はすっかり、入院生活のリズムに身体がなっていたので 夜9時になると眠った。 さて、自分はどうしようか? 自分の古巣の、Le JAZZに飲みに行こうとしたが いろいろ話を聞かれて、それに答えたりするのも面倒なのでやめた。 こういうときは、あまり関わりのないお店がいい。 と、いうわけで、市内のあるビアホールに行った。 カウンターで、飲んでいると、ここのマスターが話しかけてきた。(顔見知り程

        『 屋号は、bar torico 』

          『 母の生命力 』

          心の支えだった彼女が去り、職も無くし、 あとは、母の二回目のオペを待つだけとなった。 病室では、出来るだけ平静を装ったが 母と妹に、異変を気づかれ、彼女との別れを話した。 毎日が、モノクロームの世界だった。 母のオペの当日、また 僕と妹は 病室でオペの無事を祈った。 今回のオペも、前回同様に、頭蓋骨を切り取り、 血管の脳動脈瘤をクリップでとめると言う 難易度の高いオペだ。 もし、破裂させてしまえば死亡… 脳を傷をつけたり、クリップが他の毛細血管も一緒に挟んで

          『 母の生命力 』

          『 こんなときに… 』

          本来ならば、母の二回目のオペの話を書くところだが スピンオフとして、そのときにあった 別の話を書くこととする。 その頃、僕には4年半付き合っていた彼女がいた。 そして、彼女は母の入院している病院の看護師でもあった。 彼女(仮名 エミとしておく)の所属先はICUだった。 その、二年前には僕が入院していた場所である。 母の容態がいつ急変するかわからなかったので 病院近くにアパートを借りて住んでる エミの部屋にしばらく住まわせてもらうことにした。 エミとは、近

          『 こんなときに… 』

          『 こんなところで会わなくてもいいのに… やれやれ 』

          母が一般病棟に移ってから、また血管造影の検査をした。 今回、強行でオペした箇所は、クリップが不十分なので もう一度、アタマを開くオペをすることになった。 それから、未破裂の脳動脈瘤がいくつかあって それも同時にやることが決まった。 母には、もう嘘はつけないので 本当はくも膜下出血だと言うことを伝えた。 「私はもう死ぬの?」と母が言うので 「大丈夫。もう、一度目の手術が無事に済んだのだから、次も大丈夫だよ。 安心して。」と答えた。 少し、ショックはあったようだ

          『 こんなところで会わなくてもいいのに… やれやれ 』

          『 強行オペ 』

          朝、5時か6時頃、いきなり診察室に呼ばれた。 若い医師から、「このままだと、死を待つだけになってしまうから、強行でオペしませんか。」 と、問われた。 破裂した、脳動脈瘤の根元をクリップで止める手術なのだが アタマの中に、大量の出血があるから上手くいくからわからない…。 ただ、今、出血箇所が止まっているから やるのなら、今しかありません。と言われた。 僕と妹は、即答で「お願いします」と言った。 先生は、「まず、前提として助からないことは覚悟していてください。

          『 強行オペ 』

          『 予期せぬ出来事 』

          少しづつ、身体も心も回復し 順調に、着実に、いい方に向かっていた。 スタッフとも、阿吽の呼吸で仕事が出来るようにもなっていった。 余談になるが、その頃の僕は(JAZZ BARで働いてからのこと) 女性客から、かなりの人気があった。 (現在とは大違いである) 同時の写真が見つかったので載せてみる。 一年、二年と時は経ち Le Jazzでのやることは、やり切った。 そんな思いが芽生えていて、そろそろ独立かなぁ…などと考えていた。 そんな矢先…。 僕は32歳に

          『 予期せぬ出来事 』

          『 将来の目標は、自分のbarを持つこと 』

          日々、店長としての業務をこなし、 スタッフに仕事を教えながら営業する。 その頃思ったのが いづれ、近い将来 自分のお店を持とう という、新たな目標ができた。 お店の営業も順調で、評判もかなり良かったと思う。 人気店での成功は、確実な自信へと繋がった。 少しづつ貯金をし、やっと三桁を越え あと2年後くらいには、銀行の借り入れを合わせて 自分のBARを始めよう。そんなふうに考えていた。 そんなときに突然起こったのが 『 生還 』1998.3.12 の出来事で

          『 将来の目標は、自分のbarを持つこと 』

          『 bar 店長の始まり 』

          店長になること自体は、特に抵抗もなく やり方等々もわかっていたので問題はなかったが それが、ちょうど三月で、他のスタッフが 学校の卒業や、転職などで 誰もいない状態になってしまった。 オーナーと相談をして、系列店の喫茶からひとり あと、ふたりを募集するところから始まった。 前々から、お客さんで来ていて 働きたいと言っていた21歳男性と、 前スタッフの知人が働くこととなった。 三人とも、21〜22歳くらいの若者で 僕が確か28歳だったと思う。 木曜舎 L

          『 bar 店長の始まり 』

          『 人気店への移籍 』

          前回までは、僕が30歳のときに起こった病気のことについて書いたが 今回は、少し遡って、27歳の頃の話になります。 君津駅前の、bar stair way から、 木更津駅東口 駅前にある 木曜舎 Le Jazz という、ジャズバーに移籍をした。 木曜舎というのは、木更津界隈に数店ある 喫茶、雑貨のお店なのだが、その一つが ジャズバーだった。 このお店は、とても人気で、週末は必ずと言っていいほど満席だった。(約60席) そして、店長のOさんは、とても厳しく

          『 人気店への移籍 』

          『 退院の日 』

          若さもあってか、回復は順調に進み ゆっくりなら、トイレまで歩けるようになった。 下腹部の管が取れたときは、痛いけど嬉しかった。 胃カメラの検査をし、その後、流動食が始まった。 りんご汁や、薄い味噌汁などが小さい湯呑みみたいな器に入っていて それを飲むのが食事だった。 そのあたりになると、顔や髪の毛を洗って さっぱりしたいと言う気持ちになり。 翌日脇の、水場で、母親にシャンプーをしてもらった。 ベッドにいるときから気づいていたことだが 髪の毛を触ると、指の間

          『 退院の日 』

          『 一般病棟は、全力でリハビリを 』

          一般病棟に移ってからは、できるだけ 身体を起こしてもらうようにした。(もちろんベッドごと) 何故かわからないけど、ずっと身体がゆっくりと ぐるぐる回っているような感覚だった。 何もできない自分に、腹立たしさを 感じる。 いや、違う 何かやるべきことはあるはずだ。 そうだ。起きてる時間はすべて 指でも、首でも、腕でも、足でも、 どこかしら動くよう頑張ってみよう。 そんなことを考えながら、指を動かすように 意識を集中したり 足先にチカラを入れてみたりと、やってみる

          『 一般病棟は、全力でリハビリを 』

          『 ICUから一般病棟へ 』

          前回の続きである。 1998年3月12日に、ある病院で点滴を受けた。 いつもと同じ点滴なのに、その時だけ アナフィラキシー反応なんてあり得ないだろうが、その病院からはそう言われたらしい。 だが、99% 点滴の中身を誤ったとしか考えられない。 不運な医療事故だ。(もちろん、それを証明することは不可能である) だが、これによって、僕の人生が まったく別の方に変わってしまったという事実だけは間違いのないことだ。 そして、その後遺症は、今なお現在 続いている。 人工呼

          『 ICUから一般病棟へ 』

          『 生還 』1998.3.12 の出来事。

          この日のことは、一生忘れることはないだろう。 あるとき、目が覚めると、母が上から覗き込んでいた。 「あのね、わからないだろうけど、もう一週間経ってるんだよ」と、母が言った。 僕には何を言ってるのか、さっぱりわからなかった。 「どうゆうこと?」と聞き返そうと思ったが、声が出ない。 続けて母は言う 「ここはね、上総記念病院じゃなくて、君津中央病院のICUなの。」 えっ、どういうこと? もちろん、声は出ない。 母は簡単に説明してくれた。 僕が上総記念病院で、点滴

          『 生還 』1998.3.12 の出来事。