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『 生還 』1998.3.12 の出来事。

この日のことは、一生忘れることはないだろう。

あるとき、目が覚めると、母が上から覗き込んでいた。

「あのね、わからないだろうけど、もう一週間経ってるんだよ」と、母が言った。

僕には何を言ってるのか、さっぱりわからなかった。

「どうゆうこと?」と聞き返そうと思ったが、声が出ない。

続けて母は言う

「ここはね、上総記念病院じゃなくて、君津中央病院のICUなの。」

えっ、どういうこと?

もちろん、声は出ない。

母は簡単に説明してくれた。

僕が上総記念病院で、点滴(喘息発作のため)を受けていたら、
突然苦しみだし、そのまま意識を失って、救急車で君津中央病院のICUに運ばれた。

なんとか、ギリギリ間に合って
人工呼吸器で生きてる(生かされてる)と。

そう、思い出した。

僕は、喘息発作のとき、メプチンと言う
携帯用の吸入薬を使うのだが、
あまりすっきりしないときは、かかりつけ医の
上総記念病院で点滴を受けるのが通例になっていた。

その日も、点滴を受けようと母に病院まで送ってもらって、いつもと同じ点滴を受けたところまでは覚えてる。

が、その後の記憶がない。

アナフィラキシー反応だということらしい。

ICUは、独特の雰囲気で、モニターの
ピコン〜ピコン〜 と言う音と

人工呼吸器の、プシュ〜 スゥ〜
と、繰り返す音がひたすら聞こえる。

ときどき、看護師さんが身体を横にしてくれる。

僕の力では、寝返りをうつ事すらできない。

左側を向くと、すごい数の管がぶら下がっていて
僕の身体に装着されているのがわかった。

いったい どうしてこんなことに…。

ICUの面会は10分程度らしく、母の姿はすぐに見えなくなった。

1時間に一度、鼻と口の管の中に、痰を取るための管を入れて吸引する。

これが、たまらなく苦しくて、喉の奥に指を突っ込まれてるような感じだった。

必死に抵抗したが、僕の身体はほとんど動かず、
苦しさをひたすら我慢するしかなかった。

担当の看護師さんは、いろいろ話しかけたり、励ましたりしてくれたが、

僕には、「絶望」しか感じられなかった。

最初の一週間は、意識がなかったのだから、

当然、苦しみも気づかなかった訳だが

意識が戻ってからは、しっかりと
体感としてあるので

その分、辛くて、苦しくて、怖くて
たまらなかった。

もちろん、僕にできることはない。

一時間に一度の、痰吸入を我慢するくらいだ。

意識が戻ってからの、最初の三日間くらいは

頑張って、頑張って、耐えた。

そのあたりから、徐々に、幻聴、幻覚などが感じられ

精神的な限界が近づくのを感じた。

ICUでは、患者ひとりに、看護師ひとりが必ず24時間付く。

つまりは、三交代で8時間置きに交代するのだ。

あるとき、僕のメイン担当の看護師さんが(声でわかるようになっていた)

交代の引き継ぎをしてる声が聞こえた。

「あのね、◯◯さん 今、猪鼻さんは
必死に生きようと頑張ってるの。
だから、あなたも一生懸命に看護してあげてね。」

と、言っていた。

僕の胸は熱くなり、思わず涙が出そうになった。

心の中で、僕は諦めないことを誓った。

ICUの中でも、最重症患者の僕は、ナースステーションのすぐ横のベッドだった。

時間の感覚はわからないのだが、ときどき
音楽がかかった。

何故かわからないが、それは『スピッツ』のアルバムだった。

知ってる曲も入っているが、オートリピートで
その晩だけで、何度も何度もかかっていた。
(看護師か、先生の好みなのだろうか)

おかげで、曲順まで覚えてしまった。

その日は、やたら救急車が多く、サイレンの音が何度も鳴っていた。

もう、嫌だ… 苦しい… 嫌だ…  

喉が渇く… 水が欲しい…

泥水でもいいから飲みたかった…

悲しくて、悲しくて、自然と涙が出てきた。

突然、そのときはきた。

「先生!血圧◯◯ミリまで低下してます!」

「◯◯何ミリ投与急いで!」

一瞬で、自分のことだとわかった。

周りでは、いろんなひとが走り回る音が聞こえ

「先生!血圧◯◯しか上がりません!」

「じゃあ、あと◯◯ミリだけ追加で投与!」

僕は、心の中で、「これで人生終わったのか…」と思ったが

いや、今僕ができるのは生きたいと
願うことだけだ。

何の信仰心もなく、自分以外信じない主義だったのだが

そのときだけは、自分の中の神様に祈った。

「神様、どうか僕をまだ生きさせてください。僕はまだ30歳にもなってなく、何も成し遂げてません。
どんな辛いことも耐えますので、生きさせてください。」

そして、僕は意識を失ったのか、眠ってしまったのか…。

気がつくと、周りが静かになっていた。

あれ、これはもしかして、たすかったのか…

すると、左側から看護師さんの声が聞こえてきて

「もう大丈夫よ。峠は越えたから安心して。」

と、言ってもらえた。

そのときの、不思議な感覚と、意識の中で観たのは

夕陽があたる坂道を父がゆっくりと登っていて、それは若い頃の父の姿なのだ。

だけど、それは自分で、それをまた
自分が第三者のように遠くから見ている。

という、なんとも不思議な光景だった。

僕は、たすかった。生きた。生かされた。どの言葉が合うのかすらわからなかった。

だが、最後まで、心が折れなかった自分を、少しだけ誇らしく感じた。

そして、翌日

自発呼吸も戻ってきてるということで

人工呼吸器を外すことができたのだった。

これは、間違いなく

奇跡の生還である。

だが、もちろん闘いはまだ終わらない。

つづく


三年ほど前、横浜 外人墓地にて。


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