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『 ICUから一般病棟へ 』

前回の続きである。

1998年3月12日に、ある病院で点滴を受けた。

いつもと同じ点滴なのに、その時だけ

アナフィラキシー反応なんてあり得ないだろうが、その病院からはそう言われたらしい。

だが、99% 点滴の中身を誤ったとしか考えられない。

不運な医療事故だ。(もちろん、それを証明することは不可能である)

だが、これによって、僕の人生が
まったく別の方に変わってしまったという事実だけは間違いのないことだ。

そして、その後遺症は、今なお現在
続いている。


人工呼吸器を外すときは、あまりの苦しさに

全身で抵抗したが、4人がかりで抑えて

人口呼吸器を外した。すぐにそのまま、大きなネブライザーで

気管支拡張の蒸気を、酸素マスクのようにつけることとなった。

多少の息苦しさはあったものの、この方がよっぽど楽だった。

翌日には、ベッドの背中を上げてくれて

身体を起こすこともしてくれた。

特殊な景色に、あらためて自分の重症さと

奇跡を感じることができた。

ほんの少しだが、水も飲ませてくれた。

メイン担当の看護師さんは、変わらず

献身的な看護をしてくれた。

三日ほど経ったのち、いよいよICUから一般病棟に移ることになった。

もちろん、ベッドごと運ばれるのだが

ドクター、看護師さん、すべてが
見送りをしてくれた。

メインの看護師さんは、泣きながら

「良く頑張ったね、猪鼻さん」と

出入り口まで、ずっと横に付き添ってくれた。

ICUの外には、母が待っていてくれて

そのまま一般病棟に行った。

病棟の窓側にベッドが運ばれ、母に身体を起こしてもらった。

もちろん、ベッドごとだが。

僕は、母に鏡を置いて欲しいと頼んだ。

正確に言うと、声は出なかった。

人工呼吸器の管が、声帯を圧迫して、声が出なくなっていた。

なので、微かな息で伝えた。

鏡を見ると、自分とは思えない自分の姿があった。

顔が変に浮腫み、人間には見えなかった。

だが、僕が口を開けると、鏡の中の
気味悪い顔も、

同じように口を開けた。

こんな姿になってしまったのか…

顔を触ろうと手をあげようとしたが

僕の手はまったく動かなかった。

指も、首も、足も、意思とは別に、動かなかった。

なんだか、出来の悪い人形のようであった。

命は助かったが、僕は一生 施設か病院で過ごすのだろうと思い、

悲しくて、悔しくて、思わず涙が流れた。


面会時間だけ、母や妹がきて、身体の向きを変えたり、足を摩ってたりした。

僕は、出来るだけ"息"で喋るようにしたが

ずっと、人工呼吸器で呼吸をしていたため

肺活量が全然なくて、すぐに息が切れて

ハァハァ言った。

ICUとは別の絶望を、また感じることとなった。

唯一、救いなのは、窓の外の空が見えることだった。

つづく

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