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『 母の生命力 』

心の支えだった彼女が去り、職も無くし、

あとは、母の二回目のオペを待つだけとなった。

病室では、出来るだけ平静を装ったが

母と妹に、異変を気づかれ、彼女との別れを話した。

毎日が、モノクロームの世界だった。

母のオペの当日、また 僕と妹は
病室でオペの無事を祈った。

今回のオペも、前回同様に、頭蓋骨を切り取り、
血管の脳動脈瘤をクリップでとめると言う

難易度の高いオペだ。

もし、破裂させてしまえば死亡…

脳を傷をつけたり、クリップが他の毛細血管も一緒に挟んでしまえば

脳梗塞となる。

どちらにせよ、あらゆる覚悟を前提としてのオペである。

何時間待ったかわからないが、僕は最悪の事態も
受け入れる準備をしていた。

オペ室から、ドクターが出てきて
報告をしてくれた。

「オペそのものは、かなり上手くいったと思います。

あとは、クランケの後遺症がどのくらいあるかどうかになります。と…」

リカバリー室を経て、病室に母が戻ってきた。

ドクターの問いかけにも、母はきちんと答え

経過を見たが、特に後遺症らしきものは見当たらなかった。

これには、ドクターも、ナースも驚いた。

ものすごい生命力だとあらためて感じさせられた。


3回目のオペは、カテーテルでのオペで

比較的、難易度は下がり、

母は、計3回のオペをすべて、成功して

三ヶ月半に渡る入院生活を終え、

無事に退院することができた。


この、三ヶ月半という月日は

とても長く感じられ、仕事とは比べ物にならないくらいに疲れた。

とにかく、君津中央病院の脳外科

及び、脳外科A病棟の看護師さんたちには

ただただ感謝しかない。

病院敷地内の桜を、母を車椅子に乗せ

一緒に見た感動は今でも忘れない。


自分自身の話しで言えば

毎日、毎日、悲しくて、家に帰るたびに泣いていたのを覚えている。

ときどき、心配して、エミからのメールや電話があったが

その都度、復縁を期待してしまう自分が嫌で
連絡を絶った。


退院後、母には特には異変もなく

クルマの運転以外は、すべて以前と同じようにできるようになった。

さて、これから、仕事をどうしようか…

僕は、そんなことを考え始めていた。

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