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すべてを師として生きること。【魔法使いの哲学#4】【学びのあり方について】

2年ほど前にお仕事の独立のことを占わせて頂いた女性から「あの時占って頂いたことがきっかけで、自分のお店を開業しました!」というご報告があった。別に僕は何もしていないし、それはもちろん彼女の決断と努力の結果なのだけれど、そういうご報告があるとまるで自分のことのように嬉しい。他にも占いをした数か月後か数週間後に、良い転職ができましたとか、独立しましたとか、仕事関係でのステージアップの後日譚を聞かせて頂く機会は多い。

ある方からのご感想で「由宇さんの占いは、まるで私が一冊の本の最初の方だけ知っていて、実は占いで言われたことも当時はピンと来てなかった部分もあったのですが、読み進めていけばいくほど由宇さんがその本まるまる一冊の中身を知っていたことに気付くみたいな感じです」というお言葉を頂いたことがある。そう、そうなのだ。占いに於いて、「うわースゲー当たってるー!」というのはある種のパフォーマンスでしかない。だいたいの人の眼には曇りがあるので、実は本当の話をされると「え、そうなの?」と、むしろすぐにはピンと来ないことの方が多いのだ。そして占いに於いて本当に意味のある言葉は「当たっている」ことではなくて、「まだ知らないこと」の中にある。僕はそれについて言っている。そこで語られた言葉は、覚えてさえいれば後日ちゃんと効いてくる。「いまより少し未来の相手に向けて語る」というつもりでこの仕事をしているので、このようなご感想を頂けたことを大変嬉しく思う。

「あなたはまだお若いのにどうしていろんなことを知っているんですか?」と、年配の方にもよく聞かれる。いえいえ、むしろ僕があなたから学ばせて頂いて、だからこそいろんなことを吸収できるんですよと、謙遜などではなく本当に思う。実際にそうなのだ。僕はあらゆる学びに於いて「特定の師を持たない」というスタンスを保っている。「特定の師を持たない」とは、べつに自分が一番だとかそういうことを言っているのではない。むしろ反対に「出会うすべてが師である」ということを意味する。一人の人間から学ぶより、出会うすべてから学んでいるほうが学びを得る機会は圧倒的に多い。人間はもちろんのこと、自然界、特に虫は多くのことを教えてくれる。例えばクモの狩りは独特だ。幾何学模様の巣を張って獲物がかかるのをじっと待っている。そんな姿を見るとつい「クモ先輩!」と思う。他の動物たちのように自分から獲物を追わず、美しい罠を仕掛けてひたすら待つ。こそこそ隠れたりなんかせず、罠の中心部に堂々と君臨している。彼らは決してジタバタしない。逆にジタバタしてる皆さまを狩る。わかりました先輩。僕もあなたのように、こそこそしたりジタバタしたりせず、美しい巣を張って堂々と待ちますね。

僕には他にもさかな先輩、ちょうちょ先輩、とり先輩、太陽先輩、月先輩、海先輩などがいる。浮気はだめよと巷では言われるが、学びの対象に至ってはどんどん浮気すべきだ。

黒猫のVi先輩。彼との共同生活から学ぶことはたくさんある。

数年前、夜のアーケード街の路上でひたすらタロット占いをして生活していた時、いつも良くしてくださっていた近隣の店の主から「これを読んでみるといい」的なことを言われ一冊の本を渡された。店の主人は以前から僕のことを気に入ってくれていたし、僕も彼の職人気質な人柄が好きだったのでうっかりどんな本かを確認せずに受け取ってしまった。著者を見ると某新興宗教団体の教祖の名があった。「あー」。手の中で、自分が持っていてはいけないものを持っている感じがした。しかし何も知らずに偏見で拒絶するのもどうなのか、ひょっとしたら1ページでも面白く読める部分があるかもしれないと思い、家に帰って試しにパラパラとめくってみた。しかし案の定、「はは、マズい。何と言って返そうか」と苦く笑いながら本を閉じることとなった(後日なんとか話を煙に巻きながらその本をお返しすることができた)。

新興宗教のみならず、世間ではある種の“カリスマ教祖ビジネス”が大流行している。「物事を学ぶ」には2通りあって、ひとつは僕のように独学であらゆる事柄から学ぶスタイル。もうひとつは特定の師について教わるスタイルがあり、あり方として否定するつもりはない。しかしそのいずれにしても、学ぶというのは「他人に答えを教えてもらうこと」ではない。後ろの方に書いてある解答集を見て何かを学んだような気になってはいけない。本当に取り組むべきは、目の前に立ちはだかる問題集だ。「私のように生きなさい」とか「私から学んで磨かれなさい」とか言ってくるレベルになると本当に押し付けがましくて「うっ」となる。他人に生き方を教えられると思っている時点で、他人の生き方を恣意的に変えることができると思っている時点で、傲慢以外の何物でもない。学ぶ側はあなたの姿や生き様を見て勝手に学んでいくのだから、あなたはあなたでご自分の学びにご集中なさってください。と、思ってしまう。

「死(タナトス)とは死への直線、生(エロス)とは死への迂回である」

何の本だったか、こんな言葉をどこかで読んで「なるほど!」と思ったことがある。ここに当てはめるならば、「答え」とは答えへの直線=死(タナトス)である。「問い」とは答えへの迂回=生(エロス)である。

つまり答えを知ること自体ではなく、「答えを知るために問うこと」こそが「生きる」ということなのだ。いきなりすっぽんぽんで登場するよりも、ちょっとずつ焦らしながら服を一枚一枚脱いでいく方がセクシーだ。人類を導いてきたのはいつの時代も「答え」ではなく「問い」だった。「○○は✕✕である」「△△は□□であるべきである」というのは必ずどこかで覆され、「これは一体どういうことなんだろう?」「本当にこうあるべきなんだろうか?」と問いを抱いた人が新しい道を切り開いてきた。答えを知ること自体ではなく、答えを知ろうとして「問うこと」。これが人の生の本質ではなかろうか。

死は直線、生は迂回(曲線)である。

「答えを教えてくれる人」ではなく、「自分にとって問いそのもの」であるような存在。そういう人こそが本当の意味での先生だ。「ずっとこう思っていたけれど、あの人を見ていると実はそうでもないんじゃないか?」「自分はそんなんじゃ生きられないと思っていたのに、どうしてあの人はそれで生きられているんだ?」彼らは既知の世界の外側にいる。いつも我々の知らないところにいる。そういう人に問いを投げかけてみよう。きっと彼らは答えを教えてくれるのではなく、さらなる問いを巻き起こしてくれるだろう。

次回、10/8(土)更新。
『スムーズじゃなくても、穏やかでいる』。

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