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『康子の部屋にて』(#2000字のホラー)

 康子は、マンションの一室の自宅に帰ってきた。暗闇の部屋が体に悪そうな人工的な青白い光に照らされて、目が眩みそうになる。
 康子は帰ると、まず部屋着に着替える。アパレル系の店員として仕事服が常におしゃれ着なので、まずは部屋着に着替えるのである。いつものことだ。
 しかし、今日の康子はまず風呂に入った。昨日までとは違う行動だけど、初夏で汗をかいたから仕方ない。落ちている下着には汗染みができていた。
 康子の入浴時間は平均34分だが、今日はいつもより長い46分だった。
 康子はしなやかな肢体を部屋にさらし、風呂場から出てきた。張りのある美しい体。康子は鏡で自身の体を見つめた。くるりと背中越しに見たり、全身すべてを確認していたりした。そんな観察をせずとも、相変わらず康子は美しかった。
 2年4カ月11日前に田舎を出て東京へ出てきた康子だが、社会に擦れたり都会の闇に染まったりしていない。むしろそれらは、康子という素朴な石をダイヤモンドに磨き上げる試金石として機能しているようだった。おかげで、康子は田舎育ちゆえの純朴な清純さを残しつつ、都会と社会に磨かれた洗練された美しさを兼ね備えていた。
 康子は、いつもならダボッとした部屋着に着替えるのだが、今日は違った。まず、部屋着の時はブラジャーを着けないのだが、今日は着けた。それも、新品でおしゃれな代物だった。小ぶりながらも美しい、まるでサクランボの乗ったプリンのような康子の乳房がそれに包まれた。そして、ブラジャーと揃いの、清潔なレース地のショーツを履いて、膝上のスカートのワンピースを着た。仕事のおしゃれ着よりもおしゃれだった。
 着替え終わった後は、テレビを見るわけでもなく、料理を作るわけでもなく、そわそわと落ち着かない挙動を康子はとった。こんなことは初めてだった。

 しばらくすると、部屋にチャイムが鳴った。
 この時間に通販や出前がくる予定はなかったはずである。
 今日は、不可思議なことがよく起こる日のようだった。
 康子が軽い足取りで玄関へ向かいドアを開けると、大きな黒い影が見えた。康子はそれを招き入れ、一緒にリビングへやってきた。
 影の正体は、康子の勤め先の店長の林だった。店で康子に必要以上に接する俗物だった。
「ごめん、待った?」林は言った。
「ううん、ちょうど今、帰ってきたところ。さ、座って」
 林は座っても落ち着かず、キョロキョロと部屋全体をじっとりと這うように見まわしていた。
「狭い部屋だけど、くつろいで」
「え、あ、いや、いい部屋だよ」林は戸惑ったように言った。
「本当?」
「うん。なんで?」
 すると、康子はそわそわとした挙動をとった。まただ。今日帰宅してから、ずっとこの調子だ。
「男の人を家に上げたのが初めてだから、あんまりわからなくて……」
 康子は、顔を赤くして言った。入浴による紅潮というには時間が経ちすぎていた。
 頭が、真っ白になった。
 そして二人の間にわずかに沈黙が訪れた後、林は口を開いた。
「そろそろ、ご両親に報告しなきゃな、俺たちのこと。実家には最近帰ったの?」
「今年だと……お正月が最後ね」
「あれ、ゴールデンウィークは実家に帰らなかったの?」
 林は下卑た笑みを浮かべて言った。康子は、毎年ゴールデンウィークは父の誕生日で実家に帰っているが、今年は仕事が立て込んでいて行けなかったのだ。その時の康子の父への電話は申し訳なさで溢れていた。だいたい、店長は林なのだから、康子のシフトはわかっているだろうに。
「……もう、わかってるくせに。今年は仕事って嘘ついて、二人で旅行行ってたもんね。お父さんに謝らなくっちゃ」
 康子は、照れくさそうに笑った。

 康子と林は、しばらく取り留めのない話をしていた。
「どこに引っ越そうか」
 林は言った。康子との距離が、さっきより近くなっていた。
「ここだとさすがに二人で住むには狭いよね」
「収納多いし、この部屋も悪くはないけどね」
「そう? そこのクローゼットくらいで、収納あまりないけど」
「いや、あそこに戸棚があるじゃん。人一人入れるくらいの大きさくらいはありそうだ」
 林が、指をさす。視線が、集中する。気温も湿気も増したような気がした。
「ああ、そういえばあったね。でも、手が届かないから使ったことがないんだよね」
「康子は小さいからな」
「なに~」
 二人無邪気に、イチャイチャしているのが見えた。
「じゃあ、あそこ何にも入ってないんだ」
「うん。存在忘れてたくらいだし」
 林は、なおも戸棚に目線を向けていた。
「どうしたの?」
「いや、実は部屋に入った時にも感じたんだけど……」
 林は、いったん言葉を止めて、再び口を開いた。
「なんか、視線感じるんだよね」
 一瞬、部屋を沈黙が支配したが、康子がそれを打ち破った。
「怖いこと言わないでよ――あ、怖がらせて、心配だからここに泊まる、って算段? そんな回りくどいことしなくても、今日泊まっていって大丈夫だよ」
 康子は、甘えた猫のように林の肩に頭を置いた。雌の顔だった。そこには、彼女の美徳の清純さ、品性の欠片もなかった。
「いや、冗談じゃなくて、マジで」林の顔は真剣だった。
「ははっ、なら確かめてみればいいじゃん」
 林が、立ち上がる。
 林は康子と違い大柄で、腕を伸ばせば十分“ここ”まで手が届くだろう。


 男の毒牙に犯され堕ちた、汚らわしい牝め。
 もう興味はない。
 むしろ、憎悪の感情が湧いてきていた。
 康子の清純さも素朴さも、全て噓だった。
 ゴールデンウィークの仕事のことも、父への謝罪も、全てが噓だったのだ。”ボク”は、こんな女に多大な時間をついやして、結局裏切られた。裏切った康子を、ボクは許せない。
 ボクが2年4カ月11日もの時間を賭してこんな狭い場所で観察し愛でてきた”純朴で清純な”康子は、もう死んだのだ。

 だったら、もういらない。


 この戸棚を開けてみろ。



 死なばもろともだ。










『康子の部屋にて』完

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